事実は変わらないが、その捉えた方を変えたら気分が変わったということを書いた。
早速、面白い本を探してみた。
ジャンルは好きな時代小説に絞った。
そしてネットで検索していた時に、次のようなシリーズ名を目にした。
「浪人奉行」
「八州廻り浪人奉行」
「剣客船頭」
「浪人が奉行になる訳ない。」
「それが八州を廻るとか意味が分からない。」
「剣客は船頭なんかやらないだろう。」
「そんな奴らは絶対存在しなかっただろう。」
瞬時に頭の中にツッコミの言葉が浮かんで、これらをスル―して違うシリーズを探し続けた。
しかし、しばらくしてもさっきの変なシリーズ名が気になっていた。
それを打ち消すような考えが浮かぶ。
「こんな事実確認や時代考証もいい加減そうな本を読んでもしょうがない。」
ここで「?」となった。
ぼくは時代小説の何を面白いと思っているのだろう?
緻密な事実確認や時代考証を楽しいんでいるのか?→それも面白いが最優先ではない。
物語の流れや人物造形とその成長や変化、そういった部分に楽しみを見出しているのだろう。
事実確認や時代考証、その土台となる江戸という世界の在り方は全部物語の舞台装置にしか過ぎない。
だから、舞台装置が普通と違う(あるいは事実とは違う)からといって、物語を全否定するのは違うんじゃないか?
むしろ、物語が面白くなるなら、あえて時代考証を無視しても良いのではないか?
そう考えたら、違和感を感じる題名でもワクワクするようになった。
* * *
事実は変わらないけど、その捉え方を変えると気持ちが変わるという経験を短時間の内に連続で体験した。
これは、日常生活でも出来ることじゃないだろうか?
ぼくは今まで、何か出来事があって、それによって感情や気持ちが変わっていると考えていた。
出来事→感情
しかし、出来事と感情の間に、捉え方があることに気づいた。
出来事→捉え方→感情
そしてこの捉え方は自分の意思で変えられる。
全部は無理かも知れないけど、ある程度は変えられるだろう。
ぼくらは、良い出来事が起きますようにとか、悪い事が起きませんようにとか、出来事を重要視しているだろう。
でも、本当に重要なのは、出来事によってどう感じるか?の方だろう。
何が起きるか?はコントロール出来ない。運任せだ。
でも、出来事をどう捉えるかは自分の考え方なので変えることが出来る。
ここを変えることで、ある程度感情をコントロール出来る。
だとしたら、自分が感じたい感情が出るような捉え方をすれば、生きやすくなるんじゃないだろうか?
極論を言えば、何があっても良い気分で居られたら最強じゃないだろうか?
そこまで行かないまでも、嫌な気持ちになることを避けられるだけでもとても豊かなことだと思うのだ。