他人に迷惑をかけるとはどういうことだろうか?
まず、心配かけるというのは、迷惑をかけるのとは違う気がする。
心配させるという言葉が有って紛らわしいけど、他人に強制的に何かを思わせることは出来ないだろう。
例えばぼくのことを知らない人にぼくのことを心配させることは出来ない。
心配は、心配している本人がその気にならないと出来ないのだ。
つまり、心配は、その人が勝手にしているのであって、ぼくが心配するように強制してる訳では無いのだ。
そんなこと出来ない。
嫌な感情を掻き立てるというのも同じこと。
ぼくが他人に嫌な感情を出させるように強制してる訳では無いし、したくても出来ない。
だから、他人の迷惑になることでぼくが出来るのはせいぜい、
物理的に、あるいは法的、慣習的に制限をかけるとかだろう。
ぼくは意図的に誰かを攻撃しようとしないくても、迷惑はかけてしまうと思う。
お金が介在しているとしても、他人の助けを一切借りずに自分独りでは生きて行けないのだから。
しかし、それはぼくの生き方には関係無い気がする。
生きていたらどうしても生じてしまうという種類の迷惑と言うか。
つまり、ぼくがぼくらしく生きていようが、ぼくらしくしく生きていまいが、どっちにしろ周りの人に迷惑はかけるだろう。
だったら、ぼくらしく、自分が納得行くように生きた方が良いと思う。
それは、例えばぶつかっちゃったりというような失礼に当たる行為から、悪意を持って相手の嫌がることを言うみたいなことまでいろいろあるけど、意図的に相手の嫌がることをするのは置いておくとして、悪気がないのに相手に迷惑をかけてしまうのは、しょうがないだろう。
そういう迷惑は、自分の在り方とは関係無い気がする。
つまり、自分らしく生きようが生きまいが、それは起こってしまうと思うのだ。
これは、考えとしてはシンプルだから理解は出来るとしても、中々感覚的に腑に落ちなかった。
しかし、天然ボケの人が気を使っているのは何となく申し訳無いと言うか、いたたまれない気がするという感じがする。
責める気にならない。無理しないで、と言いたくなるみたいな。
そういう感覚を感じられるようになると、自然と腑に落ちるもののようだ。
ボケ始めた老人に約束をすっぽかされても、それはしょうがないか、となるだろう。
それを責める気持ちが出るとしたら、まあ、今までのぼくは出ていただろうけど、
それは、「約束は守らなければいけない」という思い込みが有って、
自分をいつも戒めていて、忘れようものなら自分を責めているからなのだ。
つまり、他人を許せるということは、即ち自分を許せているということになる。
そういう意味で、他人は鏡のような存在だと感じる。自分が自分をどう扱っているかの鏡像だと。
他人が在るがままで生きることを許せたら、自分も在るがままで生きることを許せるということになる。
そうならないと、この世界は生き辛い。
だって、いつも自分以外の何かに成ろうとしたり、演じたりを続けることになるから。
最近、それを実感している。