徳を積むってなんだろう?
何となく、徳を積んでおくと、後で何か良いことがある、何か不測の事態に遭遇しても自分だけ助かる。
ぼくの場合はこんな風に思っている。
それって、何処か取引きのような感じがする。
何だろうか?税金を払うみたいな、何となく公共機関を使うために前払い、みたいな感覚。
徳を積んでおくと後で良いことが有るから、今良いことと思われることをやる、というのはやっぱり取り引きっぽいなと思う。
誰との取り引きだろうか?
やっぱり、それは神様みたいな、自分よりも力を持っていて、自分の運命すら左右することが出来る絶対的な存在を想定しているんじゃないだろうか?
人によって、それは先祖だったり守護神だったりと、呼称は違うかも知れないけど自分よりも強くて力を持った何かには違いないだろう。
何か超人的な存在からコントロールされて生きていると考えると、起こっていることは全てその存在によって仕組まれていると感じてしまう。
自分の言動の良し悪しで判断された結果によって、飴と鞭(むち)のように何か出来事が与えられていると感じてしまう。
物事は、そう見ようと思えばそう見える。
実際ぼくは、それが本当だと思って生きて来た。
完全に信じていないとしても、少しはそれを信じていた。
だから、占いを信じたり、神社に参拝したりしたのだと思う。
しかし、そういう在り方は何処か窮屈だ。
良いことがあったら超人的な存在に感謝して、
悪いことが起これば同じ超人的な存在に怒りを感じたり、自分を責めたりするのだ。
結局そうやっていつも自分の言動を自分で監視しジャッジしている。それが気分が悪く感じる原因だろう。
監視しジャッジするのも面倒だし、されるのも不愉快だから。同時に両方しているんだから良い気分でいられる訳がない。
それを止めただけで、気分は良くなるだろう。
そのためには、自分を許す、認める、自分に過度の期待をするのを止める、総じて自分について考え過ぎることを止める事が必要だろう。
そんなに心配しなくてもきっと大丈夫。
心配しても、何も変わらない。
自分なら生き長らえる力が有るはず。
そう信じてみても良いんじゃないだろうか?
そうすることで、良い気分で過ごせるなら、嫌な気分を味わいながら嫌嫌過ごしているよりも良いだろう。
自分の運命を左右するような超人的な何かを想定している時点で、自分には自分の人生を切り拓いて行く力が足りないというような考えを前提としていると感じる。
つまり、自分の非力を自分に言い聞かせているような感じがする。
そんな風に考えないで、自分には自分の人生を切り拓いて行くのに十分な力が有ると考えた方が有益な気がする。
何より、自分への信頼が有るし、自分には選択の自由が有ると、自分に対して許可していることになると思う。
誰かに自由を認めてもらう前に、自分で自分の自由を許可しなければ、それは行使出来ないと思うのだ。
「徳を積む」ということも、やりたくて結果的に徳を積んでいるなら気持ち良いだろうけど、
最初から取引き目的で、つまり徳を積もうと思ってやっているのは気持ち良くないのではないだろうか?
後で、ちゃんと良い事が無いと気が済まないかも知れない。
そう考えて行くと、
徳を積もうと目論む人が一番信じているのは、損得のような取引きの考えそのもののような気がする。
つまり、自分の考えに自分で縛られているのだ。
いや自分の考えと言っても、それは他所から借りて来た考えで自分で考え出した訳でもないだろう。
つまり、自分の気持ち良さよりも、他所から借りて来た考えを尊重しているということなのだ。