知り合った人たちは、とっても貴重な存在だということを書いた。
その中でも、親しい人たちというのはもっと人数が少ない。より貴重だということ。
そして、そういう人たちとしか交流しない。特に親密な、自分の個人的な部分をむき出しにした付き合いは。
優しくしたり、冷たくしたり、笑い合ったり、喧嘩したり、そういう交流は貴重な人たちとしか出来ない。
せっかく貴重な関係性を結べた間柄なんだから、
どうせなら険悪な関係にするよりは親密な関係にした方が良いんじゃないか?
と思うのはシンプルだけど筋が通っている気がする。
でも、そうじゃないかも知れないとも思う。
それだけ親密な人だからこそ、初めて自分の奥底に秘めている考えを吐き出せるのかも知れない、と思うのだ。
そして、それは自分を縛っている信念から来ているものだと思う。
自分を縛っている考えを持っていて、同じ考えで自分と親密な人、あるいは人たちをも縛ろうとしちゃうのだ。
言い換えれば、自分が頑張って守っている「自分ルール」があって、それは実は辛いことなのだ。
でも、おそらくそれは正しいことだからとか、責任があるからとか、自分の美学だからとか、
自分の中で譲れないことになっているのだろう。
だから、目の前に居る親しい、緊張しなくて済む人に対して、何も考えずに「自分ルール」を押し付けようとしているのだ。
でも、ちょっと立ち止まって冷静に自分がやっていることを見てみると、こういうことに気付けると思う。
つまり、「自分ルール」という、言い換えれば「自分の考え」を自分の親しい人以上に大事にしているんだ、と。
何で押し付けようとするのか?
正しい主張は守るべきだ。
正しい主張をする人(=自分)は正しいので偉く、それに反している人(=目の前の身近な人)は間違っているので偉くない。
そしてルールは守る人と守らない人が居て初めて意味を成すからだ。
こんな考えが働いていると思う。
親しい間柄なのに、と言いうより親しい間柄になっても、
マウントを取ろうとしてたり、正しい>間違っているという立場の差を生み出そうとする考えが働いていると思う。
そして、それって本当に自分が望んでいるのだろうか?
と考えると、ぼくは違うと感じる。
礼儀正しく、理路整然としていて、間違ったことはしない、したとしても即座に謝ることが出来る。
そいう人たちに囲まれて生きるって、スマートかも知れない。
しかし、それは自分もその在り方をし続けなければいけないということなのだ。
そういう生き方がしたいという人はそうしてくれれば良い。
でも、ぼくはそんな人生はゴメンだ。
いくら自分が信じているルールだとしても、常にルールに縛られて生きることは、ぼくには出来ない。
自分の気持ちや感覚よりも、ルールという概念を優先するということは受け入れられない。
他人に文句を言いたくなるときは、自分の中でそういう考えが働いていると思うので、それは自分の本心じゃないんじゃない?
というのが以前書いたブログで言いたかったことなのだ。
じゃあ、文句を言いたくなっても我慢すべきだ!
と言いたい訳でもない。
どうしたら良いと思うかを書きたいけど、
長くなって来たので続きはまた別に書きたいと思う。
