自分は嫌な奴だということを書いた。
これを書いた後に考えた。
嫌な奴なんて存在しないと思う。
自分の特性の中に嫌な面があるということじゃないかと思う。
安心して居ないと言うか、自然じゃない在り方をしているので、自分にとって不自然な振る舞いをしてしまう。
他人にも伝わるんじゃないだろうか?その人らしくない言動をしているということが。
その不自然だという感覚が嫌な奴と感じられているのだと思う。
不自然な自分を表に出さないでは居られない、というのは拗ねているからだと思う。
良い人で居たい、自分は良い人だと思いたい、そういう思いが強いので、
自分のダメな部分、良くないと思える部分を見付けると、
それを否定したり、無い事にしたいから無視したりしているのだと思う。
それはつまり自分をずっと監視してるということだ。
それが逆に自分を自然な状態で居られなくしているんじゃないだろうか?
その良くない特性を、同じように持っている他人も居るだろう。
自分は意識しないようにしているのに、それを目の前でやっている他人を見付けると、
その特性を見せつけられているように感じて、その人を嫌うということもある気がする。
そういう人を嫌ったり、攻撃することで、自分は仲間ではないことを自分に証明しようとするのだ。
つまり、聖人君子を気取っているのだと思う。その状態が不自然なのだ。
しかし、自分が聖人君子ではないことを認めると、それは自然な自分を認めることで、そうすると途端に自由になれる気がする。
聖人君子を気取ると、聖人君子の振る舞いを自分に課すことになる。
聖人君子として恥ずかしくない振る舞いをしているか?と常に自分を監視しているのだ。
これを止めれば、それは自由を感じるだろう。
聖人君子になろうとしてるということは、
自分じゃない何かに成ろうとしているということで、
それが自分らしく振る舞うことを禁じることになってしまうと、人は拗ねるのだと思う。