人生を楽しむためには、好きなこと、楽しいことをやるに限ると思う。
そのためには、自分の好みを知ることが不可欠だろう。
特性や性格を知る必要が有るのかも知れない。
あるいは、自分の感覚の捉え方みたいな、味わうということを徹底的にやるとか、自分を知って行くことが必要な気がする。
そう思うようになったのは最近で、それまでは、
外にある、人生を成功させる正解(知識やノウハウ)を知る必要があると信じていた。
それが何処にあるのか?それは成功した人が知っているのではないか?とか本に書かれているのではないか?とか、
セミナーのような座学が用意されているのではないか?とか思っていた。
だから、意識が自分ではなくて外の世界に向いていた。
むしろ、自分には興味が無いと言うか、もう分かった!ということにして見ないようにしていた。
それがぼくの人生に対する姿勢の間違いだったかも知れないと思っている。
しかし、そういうことも納得行くまでやってみたから今こうして文章化出来る訳で、ある程度知ることが出来たと思っている。
つまり、これもぼくにとって必要な道程だったのだろう。
楽しむということは、かなり奥が深いようだ。
「楽しむ」という文字表現を見ると、何となく良い気持ちになることを楽しむというような気がする。
しかし、たぶんそうではない。
いわゆる他人の不幸を喜ぶといった暗い喜びみたいなものや、
もっと極端に言うと、怖いという感情でさえ、お化け屋敷に行ったりジェットコースターに乗ったりして求めたりする。
あれも楽しんでいるのだろう。そう考えると、全ての感情や刺激は楽しめるのだと思う。
惨めな思いばかりしていると感じる人、自分は情けないと感じている人、自分はダメだと思っている人、
自分は負け組だと思っている人、無力だ、ツイてない、運が無い、バカだ、どこかまともじゃない、
世界が間違っている、世界が狂っている、何かがおかしい、悪魔に牛耳られている、悪の存在に操られている、などなど。
そんなネガティブな考えや気持ちにつきまとわれていると感じる人は、
そういう考えや気持ちを楽しんでいる、楽しんでいるまでは行かなくても、執着している、手放さないでいるのだと思う。
つまり、それは自分で選んでその状態に留まっているのだ。
自分には何の選択肢も無い、というのも考えで、何を考えるか?どんな感情を感じるか?は誰にでも選択可能だと思う。
でも、いつもそう同じこと考えたり感じているのは、自分が選択してそうしているからだ。
他人が楽しんでいることを一緒にすると楽しく感じる、という時期がぼくにもあった。かなり長い間そう思っていた。
だから、人とはそういうものだ、ぼくはそういう性格なのだと思っていた。
それがある日、適応障害という病気の発症で覆されたと思っている。
それまでは一種の勘違いをしたまま、そしてその勘違いしていることに気付かないまま生きていた。
しかし、適応障害になったことで、ぼくは自分のことを知らないんだとなった。
そして、自分の中がどうなっているのか観察するようになった。
そして、自分葉勘違いをしたまま生きているようだと気付いた。
しかし、生き方を変えずに勘違いしたまま生きていたら今度は聴神経腫瘍になった。
これは何かが決定的に間違っていたんだと思った。
しかし、何がどう間違っていたのかまでは分からなかった。
ただ自分を知ろうと観察を続けることしか出来なかった。
そうやって生きて来て、今になって気付いたのが、ぼくは自分が何が好きなのか?が分からないということだった。
この発見は意外だった。
自分の好みくらい知っていて当たり前だろうと思っていたけど、
自分を無視して外の世界ばかり見ていると、自分のことが分からないままで居られるものなのだ。
それである日ぼくはブログを書き始めた。
自分のことを観察して気付いたことを書いていこうた思ったのだ。
同じように自分のことを知りたいという人たちがいるのではないか?
そういう人たちはこの文章を読んで興味を持つかも知れない、
などと考えたけどこの後どうなる?とか深くは考えていなかった。
とにかく今気付いたことを書いておきたいと思ったのだ。
そして、自分を観察し続けて、どうやらぼくは楽しむために生きているようだと思うようになった。
楽しむ、と言っても面白おかしく過ごすということではなく、かなりネガティブな感情に浸ることを楽しんでいたようだ。
しかし、それは今までの話。ネガティブな感情はもう十分楽しんだと思っている。飽きた。そんな風に思うようになって来た。