自分のことを嫌いだと思って生きて来た。
それは誇るものが何ひとつ持っていないから。
そして、他人に対して思いやりに欠ける言動を採ってしまうことがある。
その癖他人の気持ちも分からず、後になってからあの時あの人を無意識に傷付けてしまったようだと気付いたりする。
そういう、自分の欠点に気付く度に消えて無くなりたいと思う。
それくらい自分が嫌いなんだと思い込んでいた。
しかし、今日車を運転している時だった。何の脈絡も無くいきなり思った。
「自分のこと好きかも。」
そう思った途端に、自分の事が好きな理由を考え始めていた。
最初に思ったのは、自分のことが好きだという理由は自分のことが嫌いじゃないから、ということ。
好き嫌いというけど、これは細かくは次の3つの状態に分けられると思う。
好き/普通(何とも思わない)/嫌い
これを踏まえ、好き嫌いの回答は次の5つの区分に分けられると思う。
好き
好きじゃない=普通(何とも思わない)or嫌い
嫌い
嫌いじゃない=好きor普通(何とも思わない)
普通(何とも思わない)
ぼくが自分を嫌いだと思う時は、本当は好きじゃないと思っていた。
つまり積極的に好きだとは言えないと。
好きか好きじゃないかの判断は、自分が自分のイメージ通りかどうかでジャッジして決めていた。
例えばこんな感じ。
自分が思う倫理的に正しい言動が出来ているか?
→つまり悪い奴と思われる言動をしていないか?
自分が思う論理的に正しい言動が出来ているか?
→つまりバカと思われる言動をしていないか?
自分が思う公序良俗的に正しい言動が出来ているか?
→つまり変だと思われる言動をしていないか?
自分が思う社会常識的に正しい立場にいるか?
→つまりカッコ悪いと思われる言動をしていないか?
ぼくの場合普通にしているとだいだいこういった自分の判断に引っかかる言動をしてしまうのだ。
その時に落ち込んで思うのだ。
「こんな自分は嫌いだ。」
と。何でかは知らないけどそれが癖になっている。
それ以外は自分のことが好きか嫌いかなんて考えないから、この時の記憶しか自分の好き嫌いの判断材料が無い。
それで、自分は自分のことが嫌いなんだと思い込んでいたようだ。
今日は、運転以外していない時に、いきなり自分のことを嫌いか?という質問が出て来たのでたぶん初めて
「嫌いじゃない」と答えたのだと思う。
そして、常に自分を嫌いだとは考えていないと気付いてしまったのだ。
考えてみれば、自分の言動によって自分の好き嫌いが決まるのはおかしいだろう。
それは今の自分の言動に対する好き嫌いが自分の好き辛いに直結することになる。
もしくは、その言動をした今の自分の思考(判断)対する好き嫌いが、だ。
それらは自分(自身)とは違うものだ。
こう考えて来て思うのは、自分が好きか?嫌いか?は考えて判断することじゃないということ。
自分で決めることなんじゃないかと思う。
自分のことが好きで在りたいか?
自分のことが嫌いで在りたいか?
この二者択一だ。
決めたら、その決定に沿って生きて行くだけ。
自分が好きと決めたら、たぶん自分のことが好きになる材料が集まって来る。
嫌い決めたら、嫌いになる材料が集まって来る。
そういうことのように思う。
自分が好きか?嫌いか?の決定を思考に委ねるからややこしい事になるのだろう。
自分で決めちゃって良いと思う。
おそらくこうやっていろいろ自分で決めて行くことで人生はシンプルになる気がする。