こんなブログを見つけた。
内容を読む前に、題名を見てハッとなった。
ぼくは以前は極度の面倒臭がり屋で、それこそ縦に置いてある物を横にするのも嫌というクチだった。
掃除なんて絶対にやりたくなかった。掃除するくらいなら散らかっている方がマシだった。
じゃあ何だったらする気になるのか?と言えば、本当に何もしたくなかった。
音楽を聴いて、テレビを観て、本を読んで、ビール飲んで寝るみたいなのが理想だった。
実際にはそうは行かないので、やらなければいけない例えば学生なら勉強とか、会社員なら仕事をやるだけだった。
これで生きていると言えるのか?生きている意味あるのか?
何の為に生きているんだろう?
と、自分でも不思議だった。
その後、適応障害が発症したり、聴神経腫瘍になったりといろいろ経験して、気付いたら掃除が好きになっていた。
好きと言うか、汚い状態の中に居るのが嫌だと感じるようになった。
あまり面倒臭いと感じなくなった今、上に挙げたブログの題名を見てピンと来た。
ぼくは、掃除は自分のやるべきことではないと考えていたようだ。
人はそれぞれ役割があって、その役割を全う(まっとう)すべきという考えを信じていたのだと感じる。
自分でそういう結論に達したのではなく、おそらく幼少の頃にそう信じ込んだのだろう。
潜在意識でそう信じていたと言うか。
つまり、意図的にそう信じていた訳じゃなくて無意識に信じていたという感じ。
そしてそう信じた根底には自分は無力だという考えがあるようだ。
自分は無力だから出来ることはほんの少ししかない。
それだったら、自分がしなければいけないことをまず片付けるべきだろう。
そうじゃないと他人の迷惑になる、という感じだ。
病気のために働かない状態を経験して、やるべきことが無くなっても掃除はしたくなかった。
掃除はするべき仕事ではないという訳だ。
だから、いつかやるべきことが見つかるまでは力を温存しなければならないとなっていたように思う。
病気になると、それまで簡単に出来ていたことが難しくなったり、出来なくなったりする。
そういうことを経験して、だんだん考え方が変わって行った。
何か特別なことが出来ることが良い事。
他人よりも優れていることが良い事。
そんな風に信じていたけど、他人が簡単に出来ることが自分には出来ないという状態になってみると、そういう考えでは生きて行くのが非常に辛くなることが分かった。
自分が他人よりも優れていると思っているから優れていることが良い事だという考えは自分を肯定することになる。
でも、自分は他人よりも劣っていると思っているなら、それは自分を否定することになるからだ。
他人との比較での優位性を認めることに自分の存在意義を見出せる状態というのは、
言い換えれば、自分は他人よりも優れている、優れた点が有ると思えるのは、恵まれた状態なのだと気付いた。
そしてそれは、驕り(おごり)であり、自分がそう考えているだけのことなのだ。
また同時にそれはコンプレックスの裏返しでもある。
他人に対して劣等感を抱いている部分があるので、自分の優れた部分だけを殊更意識しているのだ。
そしてそういう驕った人は自分の得意なことだけをやろうとする。
自分が得意なことこそ自分のやるべきことだと、それが自分の理由だと自分に言い聞かせて。
そんな自分の得意なことが本当に自分にとって簡単に出来ることでは無い場合が多いだろう。
実はかなり努力して実力を捻り出してやっと出来ることを得意だと思い込んでいるだけなのだ。
そして自分が他人より優れているので存在価値が有ると信じ続けるために、その得意なことを身を削ってやり続けるのだ。
だから、それ以外のことにエネルギーを使わないようになって行く。
それは生きていると言えるのだろうか?
それはわざと自分を追い込んで、辛い思いをさせ、粗末に扱っていることになるんじゃないだろうか?
それが生きるということじゃなければ、何をすることが生きるということいなるのだろうか?
たぶん、日常をしっかり生きることじゃないか?
そう思うようになった。
ただ、毎日気持ち良く生きるということ、いろいろなことに喜びや悲しみや怒りや寂しさといった感情を丁寧に感じて行くこと、こまごまとした作業も心を込めて行うことがしっかり生きるということじゃないだろうか。
何かをしている時に、そのことに集中していることが大事だ。
先の事を考えたり、昔のことを思い出したりしながら今に居ない事とも言い換えられる。
特別な事をする必要は無いんだろう。
特別な知識や技術は要らない。だから子供でもしっかり生きられる。
むしろ変な考えや思い込みは集中する邪魔になるような気がする。
だから子供の頃はがしっかり生きていたのに大人になったらそう出来なくなる人がほとんどじゃないだろうか。
いまはそんな風に思う。