自分に勝つって、何が何に勝つのだろう?
自分が分裂していて、ある自分の一部が別の自分の一部に勝つ、というような感じだろうか。
でも、そもそも自分って分裂するのだろうか?と思った。
今までは自分が分裂することもあると思い込んでいたのだが、改めて考えてみると何か違う気がする。
今は自分は分裂しないんじゃないか?と感じる。
分裂するというのはイメージだろう。
考えと言っても良い。
だからこれはエゴの領分だ。
エゴというのは考えや記憶の塊で、言わば現実世界で生きて行くためのツールだと思う。
最近気付いたのだけれど、実は現実世界が実在するみたいなリアリティを演出しているのはエゴのようだ。
もしかしたら現実世界を構築しているのもエゴかも知れない。
設計から各種設定までエゴの仕事かどうかは分からないけど。
だから自分を分裂しているように見せるのだってお手の物だろう。
だから、本当は分裂していない自分を分裂しているように思い込んでいるだけ。
いわば自分の中でプロレス興行が行われているようなもの。
エゴが、創り出したレスラーが戦っているように見せていると言うか。
その一方のレスラーが別のレスラーに勝ったつもりになっているだけだと思う。
善と悪とか。
天使と悪魔とか。
真面目な自分と怠惰な自分とか。
自分とライバルとか。
全部そうだと思う。
一般に、自信を付けるためには成功体験が必要、と言われているようだけど、これも仕組みは同じだと思う。
特定のレスラーが勝てば勝つほどそのレスラーは強いと思えるということ。
このレスラーは強いと信じられることを自信が付いたと言っているように感じる。
ぼくは自信とはそういうモノでは無いと思ってる。
自信とは自分だから大丈夫、という感覚と言うか、
もしかしたら、不安が無いから何も考えていないという状態かも知れない。
自分がやりたいからやる、
という本心からの動機に迷わず賛成出来ること。
そして、やりたいことにチャレンジ出来た、精一杯力を発揮出来て、その経験を味わい尽くせたことに価値が有ると思えること。どんな結果でも後悔しないと言うか。
勝ち負けは二の次なのだ。それは思考=エゴが考えた結果というイメージだから。
結果や他人の評価を気にしない。
こだわらない。引きずらないと言うか。
そういう人は、例えその道の第一人者とか権威者と言われるような立場になっても、
興味が無くなったら止めることが出来る自由を失わないだろう。
何者にも縛られず自由なのだ。
まあ、囚われるというのはエゴが創り出すイメージだけど。
それに惑わされないという感じだろうか。
当然自分に勝ったとか負けたとかも考えないだろう。
勝ちたいのはエゴ。
負けたくないのはエゴ。
結果というイメージを欲しがるのはエゴ。
ただ単にそれをやってみたらどんな感じがするのか?を知りたいのが本心。
経験したがるのが本心。
今はそう思う。