幸せとは幸福感という感情を感じる状態だと思う。ここではそうだとしておく。
だから、幸せが永遠に続くことは無いと思う。
人は同じ感情を持続して感じ続けることはないから。
感情とは、何らかの状況が変わったと感じた時や、何かに気付いた時にしか発生しないように思うからだ。
だから、幸せは期間限定なのだと思う。
それなのに、永遠に続く幸せを求めるから何だか分からなくなるのだと思う。
その性質から言えば、幸せになるのは案外難しく無いだろう。
空腹で美味しいものを食べただけでも幸福感は感じられる。
凍えている時に身体を暖められたら、暑い時に身体を冷やせたら幸福感は感じられる。
強い欲求が出ている時にそれが満たされたら出て来る感情が幸福感かも知れない。
本当の欲求は、人生の指針になっているような気がする。
本当の欲求を感じる何かが見付けられたら、それは自分の人生に関係するみたいな感じで。
しかし現代では、普通に暮らしていても本当の欲求は出て来辛い気がする。
現代では、様々なメディアを使って、流行を生み出したり、恐怖を煽ったり、物欲や食欲といった何らかの欲求を煽ったりすることで人工的に強い欲求が出るように仕向けられていると思う。
そういうことで感じるのは偽りの欲求だと思う。
この偽りの欲求が頻出するので、自分が本当の欲求が感じにくくなってしまっていると感じる。
しかも偽りか本当かといった見分けがつかないから、偽りの欲求に踊らされて生きているというのが、ほとんどの人の陥ってる状況なのかも知れない。
そういう偽りの欲求の元で得られる幸せも偽りかも知れない。
そういう偽りの幸せを追って進む道はやはり偽りの、本来自分が進みたい方向とは違う方向に誘われてしまっている気がする。
だから、本来自分が進みたい方向に進むためには、
まずは自分の本当の欲求か?偽りのそれか?が分かる感覚を取り戻すところから始める必要が有るだろう。
偽りの感覚が分かるようになったらそれに従わないとどうなるか?を身をもって経験してみる。
すると、実はその方が偽りの欲求に従うよりも快適なことに気付けるだろう。
ぼくはまだその辺りの段階なので、その先がどうなるのか?は分からない。
しかし、それだけでも世界が今までとは違って感じられる。
偽りの欲求に振り回される生活は華やかで楽しく忙しい。
しかし、よくよく自分の気持ちを感じてみると空虚でもある。
ただ、周囲の人たちみんなが同じように偽りの欲求に振り回されているので、これで良いのだ、これしかないのだと思い込んでしまいがち。
しかし、一度そのような考えを捨てると、他人に迎合しなくなるので静寂と孤独に身を置くことになる。
そうなって初めて、内省というか内観と言うか、自分を見つめ直し始めるだろう。
そこで、それまでの自分がいかに疲れていたか、いかに消耗していたかが分かるのだ。
それでも慣れ親しんだ偽りの欲求に振り回されて生きる世界は魅力的に感じることがある。
世界はあの手この手で偽りの欲求を掻き立てて来るし、何より自分の身体が偽りの欲求を満たして感じる偽りの幸福感を覚えているからだ。
たぶんそれこそが依存や中毒に陥る仕組みなんだと思う。
中毒や依存については以前書いたので興味が有れば参照してください↓。
欲求を満たした時に感じる幸福感が無いと生きている張り合いが無い、みたいな。
しかし、欲求を満たして感じる幸福感は人生の目的では無いと思う。
それは道先案内のサインでしかなく、自分の進むべき道を仄めかしてくれるものでしかないだろう。
だから、幸福感を得ることを目的にするのはたぶん自分の人生の生き方ではないと思う。
では、何を目的にするのか?
良く分からない。
人生の目的を持たないといけないと考えることが勘違い、という可能性もあるのかも知れない。