自分は思考ではないと思っている | 自分世界探検家のブログ

自分世界探検家のブログ

人はみんな自分の信じていることに基いて、全てを解釈しています。
だから、全ての人がそれぞれ自分の世界に住んでいるとも言えるでしょう。

ぼくはぼくの世界を探検しながら、気付いたことや発見したこと、気になったことなどをここに記録しています。

以前のぼくは、思考が自分だと思っていた。
昔の偉い人も、
「我思う故に我あり。」
と言ったじゃないか、というのを根拠にしていた。

今は違う見解になった。

思考は自分ではないと思う。

 

例えば、手は自分の身体の一部ではあるけど、自分そのものではないと思う。

腕も脚も胴体も頭も、自分の身体の一部ではあるけど、自分そのものではないと思う。
自分の身体全体で考えても、自分の一部ではあるけど自分そのものではないと思う。

 

同じように感情も自分そのものではないと思う。

そういう流れで思考も自分そのではないと思うのだ。


思考の中に出て来る「私」は本当の自分ではないという風に思っているのだ。

何かをしたり、考えたりする主体としての「私」は思考の中にしか存在しない幻の自分と言うか、

思考が創り出した自分のイメージだと思う。

だから、ボーッとしていたり、何かに集中している時のように思考していない間があると「私」はその間消えているだろう。
そして、思考が戻って来た時に同時に「私」も戻って来る。
「我に返る」
と言うヤツだ。

だから、思考は自分ではないと思っている。

思考は、生まれてから今までの経験で蓄積した情報の結果だと思う。

データの塊。データベースみたいな。
だから、今からでも変えることが可能だと思う。

この思考は、幼少の頃からの情報を溜め込んで来ているので、

大人になってから得た知識や概念はもちろん、

幼少の頃に有効だった処世術やルール、信じ込んだことも未だに大事に抱え込んでいる。

その中には大人になった今となっては不要な、あるいは間違った情報も有る。

そういうのが今日の問題の原因になっていることがあるので、そういうものは早く手放した方がいいと思う。

しかし、思考が自分だと思っていると、そういう風には考えられないだろうな、と思ったのだ。

自分をどう見るか?どう見なすか?ということになると、

自分観とでも言うべき在り方の問題になるので、

ぼくと違う考えの人が居ても間違っているとも言えないだろう。

だから、ぼくは自分は思考ではないと考えているという話だ。