以前のぼくは、思考が自分だと思っていた。
昔の偉い人も、
「我思う故に我あり。」
と言ったじゃないか、というのを根拠にしていた。
今は違う見解になった。
思考は自分ではないと思う。
例えば、手は自分の身体の一部ではあるけど、自分そのものではないと思う。
腕も脚も胴体も頭も、自分の身体の一部ではあるけど、自分そのものではないと思う。
自分の身体全体で考えても、自分の一部ではあるけど自分そのものではないと思う。
同じように感情も自分そのものではないと思う。
そういう流れで思考も自分そのではないと思うのだ。
思考の中に出て来る「私」は本当の自分ではないという風に思っているのだ。
何かをしたり、考えたりする主体としての「私」は思考の中にしか存在しない幻の自分と言うか、
思考が創り出した自分のイメージだと思う。
だから、ボーッとしていたり、何かに集中している時のように思考していない間があると「私」はその間消えているだろう。
そして、思考が戻って来た時に同時に「私」も戻って来る。
「我に返る」
と言うヤツだ。
だから、思考は自分ではないと思っている。
思考は、生まれてから今までの経験で蓄積した情報の結果だと思う。
データの塊。データベースみたいな。
だから、今からでも変えることが可能だと思う。
この思考は、幼少の頃からの情報を溜め込んで来ているので、
大人になってから得た知識や概念はもちろん、
幼少の頃に有効だった処世術やルール、信じ込んだことも未だに大事に抱え込んでいる。
その中には大人になった今となっては不要な、あるいは間違った情報も有る。
そういうのが今日の問題の原因になっていることがあるので、そういうものは早く手放した方がいいと思う。
しかし、思考が自分だと思っていると、そういう風には考えられないだろうな、と思ったのだ。
自分をどう見るか?どう見なすか?ということになると、
自分観とでも言うべき在り方の問題になるので、
ぼくと違う考えの人が居ても間違っているとも言えないだろう。
だから、ぼくは自分は思考ではないと考えているという話だ。