人は何で他人と交流を持ちたがるのだろう?とある時疑問に思った。
ぼくは、人は利己的な利益を追求をしていて、それを実現するために他人と交流するような気がする。
交流相手のその人から情報を得たいとか、その人は有名人だから知り合って他の人に自慢したい、
みたいな利己的な利益を追求しているように感じる。
あの人と話すと面白そうだから一緒に食事をしたいというのだって、立派に利己的な利益の追求だと思う。
その人との会食で楽しみを得る=娯楽として見ている訳だから。
一緒に居ると落ち着くとか、何でも話せる、逆に黙っていても気にならない、
みたいなことも利己的な利益の追求かな。
しかし、同じ利己的な利益の追求と言っても、
どれほど利己的か?というのは追及している利益によって千差万別だと思う。
電車で他人に席を譲る、みたいな他人への親切は、
相手に良い気分、楽な気分になって欲しいというような動機じゃないだろうか?
こういう時、自分の利益は相手が良い気分になっているようだと実感することだろう?
こういう場合の利己利益率は低いような気がする。
利己というよりは自分を含めた不特定多数の人々、
いわゆる「みんな」への奉仕や共同利益のようなものを求めている気がする。
そしておそらく人には、こういった利己利益率の低い利己的な利益の追求をするという特性が備わっている気がする。
それが発揮されるのを抑止しているのが、怖れや怒りといった感情や、損得や義務とか責任と言った考えのような気がする。
何お悩みも怒りも、身体的、精神的苦痛や不快感も、経済的な問題も、何も無くてしかも気分が良かったら、
つまり現状に満足してたら、他人に優しくしたくなるのも分かると言うものだろう。
そう言ったものは、人に「自分個人」を強く認識させると言えるかも知れない。
だから「自分個人」の利益を追及しようとする。
でもそう言ったものが無ければ、人は「自分個人」という認識が弱まり、
結果的に「みんなの一部」というような感じの欲求を持つような気がする。
だから、「自分個人」の利己的な利益をある程度満たしたら、
「みんな」への奉仕や共同利益のようなものを求めるようになるんじゃないかと思う。
しかし、「自分個人」の利己的な利益の追求が底無しの人もいるようだ。
そういう人の中には、満足することを許さない何かがあるような気がする。
そして、今の日本社会は満足することを許さない、貪欲になる何かを、
なるべく多くの人に植え付けようとしているような気がする。
だから、良い事をしようとするのではなく、
まず自分が貪欲になる元を手放して、
それから自分を満たしてあげれば、自然と生き易い世界が実現出来るような気がする。