昔、友人から、
「怪我と弁当は自分持ち」
と言われたことがある。
この言葉の由来や本来の意味は知らない。
しかし、これを教えてくれた人の言動から汲み取ったニュアンスがあった。
それは、自分の事は自分で始末を付けて、他人には世話にならないという感じ。
その人のスタンスは、
友人には悩み事を相談したり弱音を吐いたりしない。
そして窮地に陥っている人には近付かない。
自分が弱っている時は、姿は見せないし必要最小限の人にしか会わない。
それは良いんだけど、
今考えると、自分の友人にも同じようにさせようとしていた。
相談を持ち掛けられるのも嫌っていたように思う。
会う時は、元気で調子が良いことを前提にして、
調子が悪かったり、悩んでいると責められた。
当時のぼくはそれを、大人の遊び方、人との関わり方だと感じていた。
ストイックでカッコいいと思ったので、その考えを尊重していた。
ある時ぼくは、適応障害と診断を受けた。
その人から電話がかかって来た時に、適応障害と診断されたと話すと、
何やら不機嫌な声で話し出した。
適応障害で休養中のことは、
実はあんまりはっきりとは覚えていない。
だからこの時の記憶も曖昧で印象しか覚えていない。
ぼくが受けた印象は、
「自己管理が出来ていないからそんなことになるんだ。
元気になるまで連絡しないでくれ。」
責められた、というのと、
縁を切られた、という印象が有る。
彼は、口調こそ怒っているような、こちらに要求を突き付けるような感じだったが、
本心では困惑して何かを怖れているように感じた。
凄く繊細で、面倒なことには関わりたくない人だったんだ、
とこの時初めて感じた。
そして、こんなに弱い人とは付き合えないと思った。
この人から伝わって来る、
「怪我と弁当は自分持ち」
の精神は、自分独り孤立して世界と渡り合いながら生きているという世界だと思う。
頼れるのは自分しかいないと思っている人にとって、他人から面倒をかけられることは脅威なのだろう。
そして実際に自分が窮地に陥った場合は、
家族のような本当に身近な、我がままを言える存在にべったり甘えるのだろう。
しかし、何かと理由を付けて、自分は世話になったことを正当化して負い目に感じなくて良いことにするのだろう。
自分独りでは空気すら生成出来ない。
他人が舗装した道を歩かないでは移動も出来ない。
衣食住、どれを取っても他人の助けなしではままならない。
実際は、自分独りでは生きられないことは明白だ。
そういうことは当たり前過ぎて意識出来ないのか、無視しているのかは分からないけど、
その上で自分独りで生きているつもりになっているのは傲慢だと感じる。
こう書いて来ると、独りよがりな幼い考え方という気がする。
昔、ぼくがカッコいいと感じたのは、自分独りで生きるというのが誇り高く感じたからだろう。
しかし、それは本当に自分独りではどうしようもない状況を経験したことがない者の独りよがりだと思う。
本当の窮地に陥って本当にどうしようもなくなったら、誇りなんかどっかに行ってしまう。
どうしたらよいのかすら分からない。
とにかく一人じっとして、回復するのを待つしかない。
その間、どう考えても周囲の人のお陰で生きていられる。
何も出来ないから、無条件で自分以外の人を頼らざるを得ないのだ。
そんなときに欲しいのは、ぼくの場合はそのまま放っておいてくれること。
それは存在を認めながらも干渉しないということだ。
別に、ぼくの窮状を一緒に受け止めて、一緒に解決して欲しいなんて望まない。
「元気になるまで連絡しないでくれ。」
は、お前の弱さは許せないと言われたように感じた。
弱さはぼくの一部だ。そこは見たくないから別の面だけを見せろということだろう。
本当に表面上の付き合いだったんだな、と思う。
とは言え、そんな風に考えられるようになったのはだいぶ後になってから。
当時は、翻弄されるだけで、何が何だか分からなかった。
その経験が大きく影響していて、何か共通項があるからつながるという人間関係は信じられないと思っている。
仕事だとか、学生時代の同級生とか、趣味が一緒とか。
そういう関係性を否定はしない。必要ではあると思う。
でも、ぼくはそれ以外のつながりの必要性を感じるということ。
それがペルソナ(仮面)を介さない付き合い。
気を使わなくても、お互いの嫌がることはしないし、快適に過ごせる。
立場や考え方の違いみたいなもの、属性を抜いたところでのつながりというのだろうか。
出来ることや持っている物で量らない。
と言うか、量るということをしない。
好きというのもちょっと違う気がする。
波長が合う、反りが合う、かな。
付き合う理由はその人だから、という感覚での付き合い。
そういう関係を築ける友人が出来たら良いな~と思う。