子ども時代をどう過ごすべきか?というのが何故か気になっている。
実験の詳細が分らないので何とも言えないけど、
何となく感覚的にそうなんだろうな、と思った。
ぼくは何故か自由を物凄く欲している。
子どもの頃からずーっと。
そういう志向は子どもの頃に培われたのかな?と思っていた。
子どもの頃、自由に出来なかくてそれが原因なんじゃないかという訳だ。
家の親は子煩悩というタイプでは無かったと思う。
どちらかと言えば放ったらかしだったような気がする。
それはつまり、親はぼくに無関心でこそなかったけど、
子どものぼくとしてはもっと関心を持って欲しかったのかも知れない。
そう考えると、親に対する軽蔑や恨みの気持ちの理由が自分なりに分かる。
(それについてはこちら↓)
自由が欲しいというのは、世界との付き合い方と言うか、折衝の仕方を知らないということかも知れないと思った。
親に対して自分の主張を通すということが出来なかったので、唯々諾々と親の言うことを聞いて来た。
それが自由が無いという思いにつながっていたのかも知れない。
自由が無いというのは過干渉から来ていると思い込んでいたので、
そうならないためには放任主義が良いと思っていた。
でも、それでは自尊心が育たないようだ。
親は子どもに関心を向けて、時には干渉して、子どもと交渉するような付き合い方をしてあげるのが良いのかも知れない。
いや、それも違う気がする。
ぼくの中では、子どもは弱くてひとりでは何も出来ないかばうべき存在と信じているのだ。
それがそもそも間違っているのかも知れない。
子どもは弱いとは思う。
でも、それは人として劣っている、不完全だということではない。
単に身体が育っていない、精神が育っていないというだけの話で、
人としては生まれたその時から十全で、その人として完全な存在なんだと思う。
その子を育てなきゃと考えるからおかしくなる。
そうじゃなくて、人としてどう付き合うか?という視点で見たらもっとシンプルになる気がする。
親も自由にするから子どもも自由にして良い。
でも、お互いのやりたいことがぶつかった場合は話し合ってどうするかを決める。
当たり前のことだけど、これを地道にやって行くだけじゃないだろうか。
考えてみれば、親も不完全なのだから、聖人君子のようには振る舞えない。
親も子どもと一緒に成長して行けば良いということだろう。
課題は多いけど、絶対に逃げられない人間関係、それが親子なのかも知れない。