自分って何なのか?
ぼくはズーッと自分とはこういうものだという考え、
つまり、自分のイメージのことを自分だと思い込んでいた。
その状態で自分のことは知ってると思っていた。
自分のイメージとは、
名前だとか、家族の中での位置付け、職業、今までの経歴、外見的な特徴、健康状態、
などなど、自分に関する情報の集まりに過ぎない。
情報の集まりと言っている時点で、
この情報群が過去の事柄に関するものだと分かる。
それを思い出して、自分は○○が好きで、✕✕が得意とか言っているに過ぎない。
自分の好みを観察するとよく分かるけど、実際の自分の好みは全然一定じゃない。
時と場合によってコロコロ変わっている。
食の好みもそうだし、趣味と言うかその時の興味の対象も結構変わる。
カレーが好きだと思っても、ぼくは毎日食べたいとはならないし、
数ヶ月後にはカレーは食べたくなくなっていることもある。
しかし、自分は○○が好きだ、という自分の情報に引っ張られることもある。
何を食べようか迷った時に、自分はカレーが好きだからカレーを選ぶ、みたいな感じだ。
食べてみたら美味しかったということもあるし、カレーの気分じゃなかったなんてこともある。
いずれにしても、カレーを選んでいる時点で自分のイメージに、実際の自分が影響を受けている。
そうだとすると、自分の選択を自分のイメージによって制限されているとも言えるかも知れない。
拡大解釈すると、自分の可能性を自分のイメージによって制限してしまっているということ。
でも、そうすることで自分のことを知っているような感じになっているのだろう。
だとしたら、自分のイメージをちょっと忘れて、その時の自分の気分に忠実に生きたら、
もしかしたら凄い能力や意外な才能を発揮するのかも知れない。
つまり、自分のイメージの後ろに実際の自分が隠れていて、
普段はそのことに気付かずに、自分の能力を制限して生きているのだと思う。
じゃあ自分のイメージは無い方が良いのか?
と言えばそうではないだろう。
社会の中で生きて行くためには、自分を判別し、自分の個性を現わす必要が有る。
それはまさに自分のイメージを他人に示す必要が有るということだろう。
自分を示し覚えてもらうために名前が必要だし、
住所や電話番号、メールアドレスなどのアカウント情報なども必要だ。
それは、自分のイメージを大きく逸脱した言動や存在感を表明しない、
ということが暗黙の了解とされている世界なのかも知れない。
実際の自分が本領を発揮出来る余地は社会の枠組みの中には無いのかも知れない。
発揮出来るのはパーソナルな世界で、その結果出来上がった成果物は社会で公に出来るような気がする。
だとすると、自分が創ったものは自分ではないということなのだろう。
完成した時点で、それは独立して存在する1つのものになる。
自分との関係と言えば、「それを創り出したのは自分」という情報だけだ。
そしてそれは自分のイメージに含まれる。
実際の自分とは関係無いということになると思う。
単に自分を制限する情報の1つになるだけなのだ。
実際の自分が自分の持てる力を発揮出来るかどうか?
は自分のイメージを捨てられるかどうか?にかかっている気がする。
自分のイメージは生きている時間が長ければ長いほど増えて肥大化して行くだろう。
だから、歳を取ればとるほど自分のイメージを捨てるのが難しくなるのかも知れない。
自分のイメージをいつでも捨てられるような生き方をしてみたいと思う。