適応障害で精神科に通っていた時期がある。
治療と言っても、特に何かする訳でもなく、ただ話しているだけだと思っていた。
それでも、先生に話をすると何となく気が楽になったと感じていた気がする。
後で知ったけど、あれがカウンセリングというものだった。
元々悩み事を他人に相談する性格ではなかったのもあって、
カウンセリングの傾聴という概念を知ってもピンと来なかった。
話を聴くだけで相手が癒やされるというのだ。
しかし、実際に傾聴の効果は自分で経験してた訳で、
確かに効果があると認めざるを得なかった。
ぼくだけかも知れないけど、
傾聴されると自分の中に没入して行くような感じがする。
聞き手が居ると整理して分かり易いように話そうとして考えるからかも知れない。
また、一人で考えているときには気にならないような自分の中の矛盾や思い込は、
聞き手に質問されることで自分の中でクローズアップされる。
そこに意識を向けてなんとか言葉にして表現したときに相槌を打たれると、
自分の独り良がりじゃなかったんだと、ここはこれで良いんだと思える。
そしてそこを足がかりとしてもっと深い所に行けるという感じだ。
その積み重ねで行き付くのは、ズーッと仕舞い込んでいた昔の記憶、
何かの出来事とその時感じたことだったりする。
思い込みと言っても良いし、自分を戒める決まりみたいなもの=自分ルールかも知れない。
でもそれは無意識で信じ込んでいたから気付けなかっただけで、
一度意識上に上がったらもう手放せる。
だから気付いた時に、開放感のようなものを感じることもある。
だいたいそれは何らかの気持ちとセットになっていて、
それはだいたい不快な気持ちだろう。
その気持ちを感じたくないから仕舞い込んでいたんだろう。
しかし、気持ちの方は感じ切って欲しいのだ。
事有るごとに外に出ようとする。それで何でもないことで感情的になったりする。
この気持ちを見付けて感じ切るのが傾聴の目的なんだろう。
日常的に行われることで、これに似たものは相談というヤツだろう。
男性の相談は具体的な問題に対する具体的な対処方法やそのヒントになる知識を求めていることが多いと思う。
だから傾聴というよりは議論に近いかな。
これに対して女性はむしろ正解は求めず、ただ聞いて欲しいみたいな感じのようだ。
これは傾聴の簡易版という感じがする。
ただ、話し手は言いたくないことは言わないし、話を盛ったり嘘も吐く。
聞き手は聞き流していても責められる筋合いはない。
それでは自分の中の隠された何かなんかに到達しようがないだろう。
やっぱり、気晴らしやうっぷんのはけ口という感じなのだろうか。
傾聴とは違うとしても、気持ちを吐き出したいということは共通してる。
人にとって、気持ちを表出することは大事なのだろう。
表出しなくても良いけど、自分でちゃんと感じることが大事なんだと思う。
せっかく出て来た気持ちを無かったことにして仕舞い込んでしまうから、
その場は良くても後でまた辛くなるのだと思う。
そうは言っても、その時点では気持ちを押し殺すしかなかったのかも知れない。
人は、そうまでしても頑張って生きていると思うと、
ちょっと健気だな~と感じる。
自然とバランスを取ろうとするように出来ているんだな~と思う。