ぼくは小金は欲しいけど、大金が欲しいのかどうか自分でもよく分からない。
お金が欲しいという欲求があるとして、
出発点は何処か?どういう気持ちか?というのが大切な気がする。
お金が欲しいというのは、思考による判断の結果だとしたら、本当にお金が入って来たとしても手に余るような気がする。
お金が入って、高価な物を買って、高価な食事をして、高価な家に住みたいと思うのは勝手だけど、
それは本当にやりたいことなのか?
何かを買う、手に入れるということは、それに付帯する作業や手続きもやることになるはずだ。
単純に物が増えたら、その保管や管理や整理整頓の作業は発生するだろう。
それがやりたいことなのか?
高価な食事をするなら、それなりの服装や、予約などの作業、食事のマナーやお酒の知識の勉強などが
必要になるのではないだろうか?
それがやりたいことなのか?
家がデカくなれば、掃除する手間も増えるということ。
お手伝いさんを雇うとしても、その作業や付き合いも増える。
それがやりたいことなのか?
ぐうたらで動きたくないし、一人で居たいぼくはちょっと無理かも、と思う。
それでもやりたいなら、それら全部が入手出来る可能性は大きいのかも知れない。
しかし、お金が入ったら好きなように使えるかはまた別な話かも知れない。
貯めておきたいと思っても、そうは問屋が卸さないのではないだろうか?
何か今と大きく状況を変えるということは、当然生活様式や自分の在り方も変化するだろう。
今の自分には思い付かないなんやかんやで使うことになるかも知れない。
潜在意識で今の生活に安心を感じていたら、大きく変わることはないかも知れない。
コンフォートゾーンとかは、そのことを言っている気がする。
この世が舞台だとすると、世界はみんなで作り上げている演劇だと言えるだろう。
全てのひとには何らかの役柄が割当られている訳だ。
貧乏だった人が金持ちになるというのは、役柄が変更になるということだと思う。
立ち位置や立居振舞、台詞や演技内容も全て変わるだろう。
その準備や練習をして、そういう新しい何もかもが自分に馴染んだらそう成れるのかも知れない。
馴染んでなくても、そうなると意図すれは成れるのかも知れない。
そのどちらかではないかと思う。
何も変わらないのは、そのどちらかが出来ていないというサインとも言えそうだ。
役柄が変われば、着る衣装や使う小道具も変える必要があるだろう。
お金は人生という舞台においては、小道具のひとつのようなモノだと思うから、
当然役柄によって持っているお金は変わるのだろう。
役柄は同じなのにいきなり小道具だけ変わるのは不自然だと思う。
役柄が変わるとか、役柄の果たす役割が変わるというのは、
例えば、幼稚園生が小学生になるとか、
学生だった青年が就職して社会人になるとか、
転職して職業が変わるとか、
結婚して、独身だった役柄から新婚さんになるとか、
父親だったのが孫が出来ておじいちゃんになるとか、
女性だったのが男性になるとかいろいろあるだろう。
むしろ人生において役柄が変わらないことは無いと言えそうだ。
自分の持っている小道具だけを変えたいというのは無理があるけど、
役柄を変えたい、あるいは役柄の果たす役割を変えたいというのは自然な気がする。
なんか転職や引っ越しに似てる気がして来た。