以前は今までは、
上手く行ったとか、
上手く行かなかったとか
考えることが多かった。
最近はあまり考えない。
上手く行った/行かなったと言うのは、
言ってる本人の考えに過ぎないんだなと、
思うようになった。
同じように、
成功した、失敗した、
儲かった、損した、
正しい、間違ってる、
とかも、全部その人の考え、現実に対する判断だ。
現実とは、時間的に観れば一連の流れであり、一度も途切れていない。
だから、本来現実を観て判断するなんて出来ないと思う。
やっているのは現実を時間的に区切って一区間だけを観て判断することだけ。
どこを取り出すのかも意図的だし、
どういう判断基準を持って判断するかも意図的だ。
その意図とは、実はその人の世界観だったり、
自分のイメージを補強するということのようだ。
自分が思っている事に合致したという瞬間だけ、
こういう結果になった、
だからやっぱり世界は〇〇だとか、
自分は△△だとかと考える。
そして、それは考えなのに事実だと信じてしまうのだ。
そうすることで、
元々信じていた世界観や自分のイメージを強化している。
なぜなら、それが真理だと思いたいからだ。
自分の感じた感情や感覚よりも、
真理を大事にしている姿勢。
自分よりも、
自分の考える真理を優先していると言える気がする。
そんな在り方で、
果たして人生を本当に生きていると言えるのかな?
と疑問に思う。
そういう在り方だと、
事件やハプニングを有難がるようになる。
それは面白いこと、楽しいこと、良いことだけでは無い。
酷いこと、悲しいこと、悪いことでも良いのだ。
要は変化してれば、何でも良いのだ。
反対に、何も起こらない事が辛いということになる。
何も起こらないというのは、特別な判断が下せる事件が起きないということで、これも考え。
実際は時間は過ぎているし、
世界は刻一刻と変化している。
世界なんて言わなくても、自分の身体だって一瞬たりとも同じ状態のことは無いのだから。
しかし、そういう微細な変化、
じっくりとした変化、
知らないところで起こっている変化、
自分の思考で捉えられない変化は判断のしようが無いので、
何も起こっていないことにされているだけなのだ。
じゃあ、生きているってどういうことか?
考えは考えで有って良いけど、
それに囚われない状態だと思う。
自分の感覚や感情を味わっている在り方と言うか、
いつも好奇心を持って居ると言うか、
現実を決めつけていない、
過去から未来に連綿と続く時間の中の〇月×日△曜日という一日みたいな捉え方ではなく、
ずーっと続く現在として居るという感じかな?
そうなると、
何も特別な事件が起こらなくても、別に気にならない。
独りで居ることがしっくり来る、
自分と上手く行ってると言うか、
穏やかに過ごせる感じがする。
最近はそういう感じで、
未来を恐れたり、
過去を後悔したりということがほとんど無くなった。
これはどういう変化なのか?
と自分を観察したらこんな内容の文章になった。
これもぼくの考えなので、
本当はどうなのかは分からない。
人の数だけ本当が有るとも言えると思う。