何かをしているとき、
何を意識しているのか?
っていうことが大切だと思う。
子どもと過ごす時間を、
御守りをしていると定義すると、
単に子どもの調子に合わせているだけで、
大人の自分にとっては意味のない時間になってしまう。
でも、子どもと繋がる時間と定義すると、
何かワクワクする不思議な時間になるような気がする。
思考優先型の人は、
理屈が通るとか、意味が有る、結果が出るみたいなことを求め勝ちだろう。
そういうシチュエーションの場合も有るだろう。
でも、人生全てがそういう時間では無いということを
忘れ去っていることが多い。
理屈や結果を超えたモノは、実は沢山有る。
感情や感覚を感じること、
思考しないで、目の前や自分の中で展開されていることをただ観る、感じるということ。
生きるとは実はこういうことを指すのではないか?
と最近はそう思うようになって来た。
思考優先型の人は、同じように思考優先型の人と繋がり易い。
同じ志向の人が集まるからその志向が現実だと勘違いする。
だから例えば、世界は思考で理解可能、説明可能と考えたりする。
思考は再現可能で、何度思考しても同じ経過を辿って、同じ結果に至るものだろう。
これが何とも言えない安心感と信頼感を呼び起こす気がする。
でも、それは固定した世界であり、変化しないという意味では死んだ世界だ。
そこに意識を受けている間は、実は孤独で活きていない気がする。
活きた人は、特に子どものように生きるエネルギーに溢れる存在は、
生の世界に居る。
そこは思考の制限を受けないので自由に振る舞える。
そんな存在は、今ここに一緒に存在して、
感情や感覚を共有することが交流であり、
何より求めるモノなんじゃないかと思う。
そう考えると、
子どもは大人よりも未熟で劣った存在としているのは、
思考優先での考えに過ぎないという気がして来る。
つまり、子どもは思考の死んだ世界で生きることが下手んだけで、
それは訓練を積むことで可能となることだと思う。
思考の人=大人は、子どもの欲求や要求が
常識に合わないとか、意味が無いという理由で、
簡単に無視し、自分の考えることを強要するのだ。
実がこのことが思考の世界で生きる訓練にもなっているので、
一概に悪いこととも言えないだろう。
でも、そういうことをしているという自覚は有った方が良いと思う。
思考の制限のない世界では、
子どもも大人も無い。
平等で、同等で、自由だ。
思考の世界に居ながら自由を望むというのは、
無いモノねだりのような気がする。
そうだとすると、
人は完全に自由な世界で生きることは無理なのかも知れない。
自由な世界と思考の世界を行ったり来たりして生きるこよが、
少なくとも今の世界では必要なのだろう。