死んだ世界、活きた世界 | 自分世界探検家のブログ

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人はみんな自分の信じていることに基いて、全てを解釈しています。
だから、全ての人がそれぞれ自分の世界に住んでいるとも言えるでしょう。

ぼくはぼくの世界を探検しながら、気付いたことや発見したこと、気になったことなどをここに記録しています。

何かをしているとき、

何を意識しているのか?

っていうことが大切だと思う。

 

子どもと過ごす時間を、

御守りをしていると定義すると、

単に子どもの調子に合わせているだけで、

大人の自分にとっては意味のない時間になってしまう。

 

でも、子どもと繋がる時間と定義すると、

何かワクワクする不思議な時間になるような気がする。

 

 

思考優先型の人は、

理屈が通るとか、意味が有る、結果が出るみたいなことを求め勝ちだろう。

そういうシチュエーションの場合も有るだろう。

でも、人生全てがそういう時間では無いということを

忘れ去っていることが多い。

 

理屈や結果を超えたモノは、実は沢山有る。

 

感情や感覚を感じること、

思考しないで、目の前や自分の中で展開されていることをただ観る、感じるということ。

 

生きるとは実はこういうことを指すのではないか?

と最近はそう思うようになって来た。

 

 

思考優先型の人は、同じように思考優先型の人と繋がり易い。

同じ志向の人が集まるからその志向が現実だと勘違いする。

だから例えば、世界は思考で理解可能、説明可能と考えたりする。

 

思考は再現可能で、何度思考しても同じ経過を辿って、同じ結果に至るものだろう。

これが何とも言えない安心感と信頼感を呼び起こす気がする。

 

でも、それは固定した世界であり、変化しないという意味では死んだ世界だ。

 

そこに意識を受けている間は、実は孤独で活きていない気がする。

 

 

活きた人は、特に子どものように生きるエネルギーに溢れる存在は、

生の世界に居る。

そこは思考の制限を受けないので自由に振る舞える。

 

そんな存在は、今ここに一緒に存在して、

感情や感覚を共有することが交流であり、

何より求めるモノなんじゃないかと思う。

 

そう考えると、

子どもは大人よりも未熟で劣った存在としているのは、

思考優先での考えに過ぎないという気がして来る。

 

つまり、子どもは思考の死んだ世界で生きることが下手んだけで、

それは訓練を積むことで可能となることだと思う。

 

思考の人=大人は、子どもの欲求や要求が

常識に合わないとか、意味が無いという理由で、

簡単に無視し、自分の考えることを強要するのだ。

 

実がこのことが思考の世界で生きる訓練にもなっているので、

一概に悪いこととも言えないだろう。

 

でも、そういうことをしているという自覚は有った方が良いと思う。

 

思考の制限のない世界では、

子どもも大人も無い。

 

平等で、同等で、自由だ。

 

思考の世界に居ながら自由を望むというのは、

無いモノねだりのような気がする。

 

そうだとすると、

人は完全に自由な世界で生きることは無理なのかも知れない。

自由な世界と思考の世界を行ったり来たりして生きるこよが、

少なくとも今の世界では必要なのだろう。