「イタズラ」の個人的な意義 | 自分世界探検家のブログ

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人はみんな自分の信じていることに基いて、全てを解釈しています。
だから、全ての人がそれぞれ自分の世界に住んでいるとも言えるでしょう。

ぼくはぼくの世界を探検しながら、気付いたことや発見したこと、気になったことなどをここに記録しています。

それをすると他人に迷惑をかけると分かっていてるけど、

どうしてもやってみたくて、

それをやって案の定怒られた、

という経験って有りますか?

 

ぼくは有ります。

ぼくより年長者の友人、

しかもお世話になっている人と待ち合わせをして、

遅れると分かった後にも連絡せずに、

待ち合わせ時間に遅れて行くというのをやりました。

待ち合わせに遅れたのは別の人と合っていたからです。

もちろん怒られました。

何で連絡しないんだ、というのが怒られた理由です。

 

そりゃそうだ、当たり前だ、常識が無い、自分が悪い。

そう思います。

 

しかしぼくは謝っただけで、言い訳はしませんでした。

言い訳するにも言える事が無かったからです。

 

つまり、そうなると分かった上でそうすることを選んだからです。

顕在意識ではそれは悪い事だと思っていました。

でも、それよりもそれをやってみたいという欲求が強かった、

と言うか、これをやることになっているという感覚でした。

 

これが、自分でやったことなのにずーっとぼくの中で

納得行かずにモヤモヤしていました。

 

それがここに来てやっと理由が分かったと言うか、

ぼくの中で腑に落ちました。

 

 

人の身体は否応なく時間が経てば成長します。

しかし、心はどうでしょうか?

単に時間が経てば成長するというモノでもないようです。

 

成長とは、より少ないストレスで、

自分のやりたいことをやる方法を身に付けることだと思います。

 

じゃあ、どうしたら成長するのか?と言うと、

ぼくは経験を重ねることかな?と思います。

それも多種多様な経験を積むと成長するようです。

 

この多種多様な経験というのが曲者で、

正しい事ばかりではないのだと思うのです。

むしろ間違った事、悪い事、危ない事など、

やらない方が良いとされている事からしか学べない事も有ると思います。

 

そういう経験を実現したときに、

周囲から貼られるレッテルが「イタズラ」じゃないかと思います。

もちろん、程度によっては犯罪になることも有るでしょう。

しかし、一般的にはまだ善悪の判断も曖昧な子供の頃に

この「イタズラ」をやり終えるんだと思います。

 

しかし、子供の頃に「イタズラ」したかったけど出来なかったということも有り得るでしょう。

 

そういう場合は、

大人になってから「イタズラ」することになる場合も有るだろうと思います。

 

ぼくの場合は、

それこそが冒頭に書いた遅刻の件だったのかなと思いました。

そしてたぶんやりたかったのは遅刻じゃなくて、

意図的に他人に迷惑をかけるということだったようです。。

 

他人に迷惑をかけて、怒られて、謝って、

自分が悪いなと思いながらも

反省したり落ち込んだりはしませんでした。

 

むしろ達成感や満足感と、

やってみたけど大したことなかったという期待外れのような感覚が有りました。

もうやりたくはならないと思います。

これこそ成長したということだろうと思います。

 

迷惑をかけた友人には申し訳ないと思います。

でも、自分のやりたい気持ちと、

迷惑をかけるとか怒られるという判断だったら、

ぼくは自分のやりたい気持ちを優先させるという

人生で最初の明確な意思表示だったと思うのです。

 

ぼくの顕在意識から潜在意識に対する意思表明という意味で、

ぼくにとってはやって良かったことだったのだろうと思います。

良かったと言うか必要が有ったと言う感じでしょうか。

 

 

ここまで書いて読み返してみて思いましたが、

ぼくは「イタズラ」を推奨してる訳じゃないです。

 

それから、全ての「イタズラ」が成長に必要なモノかどうかは分かりません。

「イタズラ」にはそういう性質のモノが有るようだという話です。