久しぶりにスタバに行った。
もうホッとコーヒーの大きいサイズの注文の仕方も忘れていた。それくらい久しぶりだった。
ぼくの前の人が注文をした所で何故か店員が動かなくなった。
しばらく待たされたが全然自分の注文の番が来ない。
だんだんイライラして来た。
しばらくイライラしながら待っていると、ぼくの番が回って来た。
スタッフは謝罪もしないで黙っている。
普通はまず謝るんじゃないか!?と凄い違和感を感じた。
スタバは専用のカードがあって、お金をチャージ出来る。
残高が少なかったのでチャージを頼んだら断られた。
ここでも謝罪が無かった。何かおかしい。
どうやらシステムが故障しているらしい。
それで今まで待たされた理由が分かった。
そして、店員の対応がおかしいのはどうやらテンパっているからのようだった。
その時初めて店員の強張っている表情に気付いた。
その途端に先ほどまでのイライラした気分がスッと消えた。
この自分の気分の変わり様にもちょっと驚いた。
コーヒーを受け取って、自分の席に着いてから考えた。
イライラしてた怒りの元には思考があった。
その思考が考えていることはこんな感じ。
「何でこんなに待たせるんだ。
手際が悪い過ぎる。
客を待たせているのに謝罪も無い。
失礼にも程(ほど)がある。」
自分がお金を払うという部分しか意識していない感じがした。
対価としてコーヒーが得られるという部分がすっぽり抜け落ちているのだ。
コーヒーがもらえるということは、それに関わる作業を担ってくれている他人がいるはずだ。
その他人の働きに対しては意識が向いていない。
しかし、スタバのシステムが故障してたと知って、システムが故障したら仕事が大変だろうなと思うと自分の立場とかどうでも良くなってしまった。
そう考えたことでコーヒーを提供する側も人だということが急に意識に上がって来たのだ。
スタバの店員を初めて人として見たので、その表情が強張っていることにやっと気付くことが出来たのだった。
それまでも店員の顔や、不自然な接客も目にしていたのに、テンパっているという結論みは至らなかった。
このように、冷静に観察すれば容易に分かることも、自分の考えにどっぷり浸かっていると分からなくなってしまう。
今日は何故か偶然このことに気付くことが出来たけど、同じようなことは今まで沢山して来たのだろうなと思った。
そしてそのことに全く気付いても居なかったのだ。
何となく恥ずかしいような寂しいような損したような、そんな感じがした。
敢えて言葉で表現するなら欠落感かな。
今まで受けた優しさや気遣いの多くに気付けずに居たということは、自分の人生の豊かな部分に気付かずに生きて来てしまったんだなと思ったのだ。
遅ればせながらでも、死ぬ前に気付けただけまだ良かったのかも知れない。