スタバのレジで待たされて考えたことを書いた。
これを書いた時は、イライラしたのは待たされたから当然だと思っていた。
待たされてイライラすることについては自分の中で何が起こっているかを観察してみた。
しかし書いた後に、ぼくがスタバのレジでイライラしたのは待たされたことだけが原因じゃないような気がして来た。
先客と店員が楽しそうにやり取りをしていたことも関係してるようだ。
つまりは、先客と店員が楽しそうにやり取りしているためにぼくが待たされていると捉えているのだ。
楽しそうにしている奴らが居るのに、ぼくは待たされるという苦痛を味合わされていると言うか。
もうちょっと被害を受けている感じが有る。
彼らが楽しそうにして居られるのは、ぼくが待っているという犠牲の上に成り立っている。
そして奴らはぼくが待たされて苦痛を与えられていることに気付いていない。という感じか。
こちらの方がぼくが感じたことに近い。
自分と他人を比較して、自分よりも他人の方が恵まれていると感じると不満に思う。
また、ぼくの犠牲の上で他人が得をしている、というような感覚が有るようだ。
それが気に食わないのだ。だからイライラする。
こう書いてみて気付いた。
この考えはもっと根が深い。
ぼくは世界から正当な待遇を受けていないという感じがあるようだ。
ぼくはもっと大事にされるべきだ。
ぼくはもっと世界から優しくされるべきだ。
そういう感覚がぼくの深い所に有る。
何でだろう?
それはぼくが一般的な人よりも弱いからだ。
ぼくは幼少からアトピーだった。
適応障害や全般性不安障害と診断されたことがあった。
聴神経腫瘍を発症した。
引きこもりのような生活をしている。
社会的弱者だ。
健康だったことがないし、社会的にも上手く立ち回れない。
本当は世界と仲良くしたい。
それなのに、世界はぼくに優しくしてくれなかった。これからもそうだろう。
平たく言うとそういう感じだ。
非常に分かり易く拗ねていると思った。
詳しく観て行くと分かるけど、自分では世界や他人に対して拗ねているつもりだけど違うのだ。
「あいつは今楽しそうだが、自分はそのせいで待たされている。犠牲になっている。」という考えに拗ねている。
「世界はぼくには優しくしてくれない。」という考えに拗ねている。
自分で考えたことに対して拗ねているのだ。
ここが明確になると我ながらけっこう滑稽なことをしていると思える。
しかし、一回気付いてもすぐに忘れて、何度でも拗ねられるから不思議だ。
ここまでくると、拗ねようとしているとしか思えない。
そう、拗ねるというのも一つの娯楽なのだ。
世の中には同じように拗ねている人はけっこういるような気がする。
若い頃はそういう心理が全く分からず不思議だったけど、その後年を取って共感するようになるとは意外だ。
中高年で突発的に他人を攻撃する人って、拗ねているからじゃないか?と思う。
たぶんそういう人は真面目なんだと思う。何と言うか拗ねるにしても真剣に拗ねちゃう。
ぼくはギリギリのところで真剣に拗ねないで居るような気がする。
何で踏み止まれるのか?はよく分からない。
拗ねることが娯楽だと知っているからなのかな、と思う。
だから真剣に拗ねられない。
それとは別に、何となく「今は待ちの時期」と言うか「生まれてからまだ準備期間が終わっていない」という感じがしている。
これから何かすることが見つかるようなそんな予感と言うか。
単に頭がおかしいのかも知れないね。