昨日、母と電話で喧嘩しました。いつものことだけど、酔っ払ってる母は、自分の主張だけ主張して、意見が通らなければ暴言を吐き、逆ギレて態度が変わります。時に暴力もふるいます。その原動力は、娘へのさみしさなのでしょう。昔から、そんな怖い母が自分の母であることが心底嫌でした。そんなストレスを与えてる自分も嫌だったし、自分の母を好きになれない自分も嫌だったし、母のストレスを取り除けない自分も嫌でした。

でも、ふと、思ったのです。
果たして、自分は、悪いことをしているのだろうか。

答えは、ノー。

彼女の精神不安を私が丸呑みにしているだけなのではないか。だって、私は彼女の言うことを優等生かのように聞いている。私がそれによって鬱状態になることを母は極端に恐れていて、結果的にそれは、ますます関係の悪化に繋がっていってる。

私は、彼女の苦しみまで私が背負う必要はないし、私は嫌なことがあったら嫌と言っていいのです。
そうでしょう?

25歳にして初めて気づきました。
この年にして、初めて。

医者に言われた「アダルトチルドレン」という病態も、あながち馬鹿にできないな、と思いました。

多分、これからは、私が自分の考えとやらを、ちゃんと認めてあげて、それを主張したって良いのでしょう。
だって、私は価値の無い可哀想な人間ではない。私が悪いことをしていて関係を悪化させてる訳ではない。
そして、自分の意見を主張することは、健康な人間関係に繋がる。

そう思ったら、25年間生きてきて、ずっと抱いていた、親への罪悪感みたいなものを、手放すことができたのです。私にとって、人生の中での、とっても重要なイベントでした。


満月の日。
執着や、不要になったものを、収穫して、次に繋げて発展させる日。

手放します。


ふと、風の便りで、一年前に気になっていた人のハナシが耳に入ってきました。アホらしい流れで私の耳に入ったので、溜息しか出ないのですがね。同業種で、昨年の四月に少し遠くの地へ行ってしまった人でしたが、果たして、好きだったのかと言われれば、そういう訳ではなかったかもしれない。

大まかに言ってしまえば、好きだったのだと思う。けど、果たして、付き合いたいか、って言われれば、全くそうは思わなかった。居る世界とかが違い過ぎて(上とか下とかじゃなくてね)、居心地の良さがなかったんだよね。だから、総じて言えば、好きっていうより、憧れだった。

まぁ、彼が去って数日後、第三者の発言で、その人に抑えきれない怒りを抱いてしまったので、それ以来なんとも想っていなかったのですがね。

こういう感覚って、面白いね。


(この一ヶ月後に、今の相方と付き合いはじめた訳です。今の相方は、何度も言うけど、会ったことないのに、凄く懐かしくて、名前だって見覚えがあったので、むしろ最初からなんの遠慮なしの旧友感覚で突っ込んでいきましたね(苦笑)この人となら、今を未来へ繋いでゆけそうだと思った)


でね。実は。
つい今日入ってきた、その風の便りとやらのハナシ。
どうやら、全くの誤解だったようでした。第三者の発言自体。
だから、勘違いさえしなければ、あのまま想い続けようと思えば、想えた訳なのね。そしたら、どうなってたんだろうなぁ、と、ちょっと不思議な気持ちになりました。(まぁ、話によれば、向こうも私に対して同じ感覚を持っていたみたいなので、だから、お互い平行線のまま今に至るのでしょう。)

(三年前にも同じようなタイプの人を気になって、同じような思いを抱えて、同じようなタイミングで誤解して離れ離れになったことがあります。で、数年後に再会して、誤解を解いたんだけどね。うん、成長してないなぁ(笑))

まぁ、今の相方が最高で最後の人だと思ってるから、ただの思い出話ですね。ただ、こういう、友達以上恋人未満の感情って、小説にしたらすんごく美味しい味が出るんだろうなぁ、って感慨深くなってしまったのでした。

こういうのって、個人的に、恋には分類してなくて、ちょっとしたポッケっとの宝物だと思ってる。

一年ごしに、その存在に気づいた今日でした。多分、このまま色褪せていく、大事な思い出です。




いつでも答えは、自分の内側にある。
焦燥を、外側で埋めないで。
中身はからっぽのままになってしまう。


言葉とか、時とか、お金とかっていうのは、人間が創り出した概念だ。それによって良い方向に行ったりもするし、縛られもする。


地球や、鳥や魚たちや、花や木も、時間で生きてはいない。流れにのっている。でも人は、時間を創り出した。空間を創り出した。

時っていうのは、在るものじゃない。
だから、在るわけじゃない。



これからは、新しい流れを創りだせば、いいんじゃないかな。

自分の内側は、それを望んでいる筈。
外側に求めたものは、ちょっとやり過ぎた。自分の内側は、喜んでいますか?

時にそれを考えてみると、いいのかもしれない。




不安は、どんなに良い人でも、その人を駄目にしてしまうな。


うん。誰だって何かに対する答えをみつけようとしてしまう。不安を消したいから。安心を得たいから。


そして、答えとやらを見つけるには、自分を責めるのが1番てっとりばやい。そして、ますます不安を呼び寄せる。


だれだって、安心が欲しい。
不安は恐るべきものだから。
そんな、自我とか、
エゴというものは、結構醜い。

誰だって自分が1番で。
そう解釈する自分こそが醜いと認識することは、それによって、自分を正当化しようとする。



誰も彼も、不安という化け物に占拠されてしまう。
でもさ、命ある限り仕方ないなんて、そんな言葉はいらないんだよ。

だから、戦いはもう終わりなんだって。

どうして手を繋げないのかな。

もう、終わりにしようよ。
みんな繋がってるんだよ。

どうして不安があるというの。


この世界は物質として存在するがゆえに、不安という想念が渦巻いている。

だから、もういいじゃないか。
こんなに混沌とした世界なんだから。もういいじゃないか。
不安なんて手放しちゃえば。





最近は、時の流れにのっていると、うまく行くことが多いです。

自分で考えついた道をがむしゃらに突き進もうとすると、いばらでボロボロなうえに、結果も伴わない。

けど、時の流れに乗って、今をまったりと楽しみながら、進んでゆくと、何時の間にか目的を達成してて、それどころか、もっとたくさんの気づきに出会えている。

行動自体を楽しむことに意味があって、結果は副産物なのかな、と私は最近思う。勿論、高い目標を持つことは大事だし、自分を変えようとする心も素敵だよ。だけど、苦労しながら手に入れるのではなく、どうせなら、楽しみながらしてれば全部うまくいっちゃってるよ、みたいな。

もう、争いは終わり、って、随分前から誰かにいわれてるけど、これのことなのかな、って思う。自分を苦しめる戦いは、終わり。楽しみながらでも、ちゃんと進める。自分らしくありながらでも、全然進める。

目の前の行動を楽しむこと。
その意味を最近はよく考える。


ボロボロになるまで、そこまでして何を守りたかったの?
答えをどこに見つけたかったの?
答えは、自分の中にしかないよ。
そんなに、外側に向かって、突き進んだって、ボロボロのニセモノしかないよ。

自分の内側に、光はある。
それは、閉ざすものでも、縛りつけるものでもない。
光りながら、みつけ続けるもの。