某お城の夜桜を見に行ってきました。その帰り道、相方とお腹がいっぱいだと嘆きました。小食にはなれそうにありません。こんばんは、ナツカです。
熊野旅行の写真とかアップしようと思ってたんですが、なかなかパソコンをさわる時間もなく。ブログ記事もバスの中で書いてることが大半で、そろそろ風化してしまう前にと、この記事を書きます。
そんなわけで、熊野本宮大社の旧跡地である、大斎原のお話です。
添付の鳥居は、大斎原にある、大きさで有名な鳥居です。雨が降ってる午前中にしか携帯で写真をとらなかったので、こんな写真なのですが、どうでしょ。何かを感じるかな。
鳥居に辿りつく前に、長い一本の田んぼ道があります。だだっぴろい、大地とそびえたつ山。すでにそのあたりから、ごうごうとエネルギーが湧き出ているのがわかります。
鳥居のあたりから空気ががらりと変わります。雑木林がお出迎え。ざぁざぁと降る雨とぬかるみの中を進み、木々とお話をしながらその道を抜けます。ゆっくりと、立ち止まりながらね。
そして広間に辿り着きました。その開けた土地を視界に入れた瞬間、本当に息が止まりました。そして、何故か涙がぼろぼろと出てきたんです。それはもうとめどなく。雨はいっそうに強まって、私は呆然と、その場に立ち尽くしてしまいました。
これでいいんだ。
その想いがどっと、身体中に溢れました。突然のことで何が起きたのかと思いました。けれど、その強烈な想いだけが私の身体中に溢れる。迷わなくていい。ありのままでいい。難しいことなんて考えなくていい。今のわたしでいい。それでいいんだよ。
こんなに強いひとつの感情は、とうてい、私1人が発せるものではありません。勿論、こんなこと思ったことない。この地が、教えてくれている。そう思わざるをえなかった。
ああ、これは、浄化が起きているな、と思いました。強まる雨と、湧き上がるエネルギーで、浄化がされている。そして、心のブロックの解除。
シンプルに生きる。
今をいきる。
頭で考えて進むのではなくて、行く先の点ひとつをただ望むだけで、あとは何も考えない。頭なんて使わなくていい。感じるこころをありのままに、そのまま動けばそれでいい。
そこで初めて私は、未来はコントロールできないんだ、って気づきました。どんなに何かを頑張ったって、いい未来を作ろうとしたって、それは自らの脳内の妄想にしかならなくて、自分の心は閉じていって、いつしか自分を苦しめて辛くなるだけ。
シンプルに生きる。
必要なものだけ、手にして、あとは自然に還す。それは物だけじゃない。心もおんなじこと。
そうすることで、私が私らしくいられる、って、確信した。
シンプル。
なんて気持ちいいんだろう。
自分の心が今感じることを、そのままに動く。なんにも考えなくていい。
熊野の地は昨年の台風の影響が、まだ、ありありと残っていて、その惨さを感じました。それはきっと、人がそこに何かを創り出して、それを守るから、壊れれば嘆き悲しみ、再生しようとする。
でも、自然にとっては、それは破壊ではない。木がどれだけ倒れようが、それは土へ還り新しい命が芽を出すし。上手く言えないけど、きっとそれは、ひとつの生きる姿なだけで、破壊ではない。
人も、そう考えたら、素敵なのにな、って思う。
私は、何かを必死に創り出して例え壊れてしまっても、特に嘆いたり悔しがったり、執着をしないで、何事もなかったかのように続きをはじめるので、周りからは白い目でよく見られるのですが、今回のこの土地での気づきで、ああ、私は現代人っぽくない、アメニズム思考の人間なんだな、って気づいてしまった。自然、こそ美しい。
だから、共感できる人が少ないのは、当たり前で、どれだけ少数派になっても、決して、私は間違っちゃいないのだと。確信した。かと言って、便利さを求める現代がダメと言ってるわけじゃない。
ただ、シンプルに、必要なものだけ感謝して取り入れて、ちゃんと自然に還す。光と、風の匂いと、大地の呻きと、空気の振動の柔らかさや、お日様のいいにおい。それを感じて、自然とともに生きる。その生き方を、今の生活に少しでも取り入れたら、私が私らしくいられる。
その後、世界遺産に登録されてる温泉、湯の峰温泉に入りました。毒でおかされた体を治したと言われる不思議な温泉。1組ずつしか入れないので、入るのに1時間半待ちでした。雨風寒い中、外でひたすら待ちました。
入ると、そこには大地のエネルギーを感じました。延々と熱い湯が湧き出ているので、時々水を足します。恐ろしいほど温まりました。そして、身体の細胞が蘇る、そんな言葉が頭にうかびました。果たして何が起きてるんだろう。制限時間は30分。あっという間でした。その間、なんだか、不思議な次元に迷い込んだ感覚でしたが、時間がきてそろそろ上がろうとした瞬間。壁の隙間から、なんとお日様が差し込んできたじゃありませんか。あれ、雨と風は!?
すっかり晴れてくれました。のぞめるは、山あいの煌めくお日様。
突然の光に、思わず息を飲みました。そして、声を出して感動してしまいました。
これは、もう一度、今度は晴れた大斎原に行くしかない!
目的地を変更して、急遽また大斎原へ。
二度目のそこは、もう、心も身体も魂も、るんるんに弾んでしまいました。全てに対して、ただ、ありがとう。そんな気持ちでいっぱいでした。すべてが愛おしくて、日の光を浴びている桜もあまりにも美しく見惚れてしまいました。本殿跡の裏側に回って、本日二度目の瞑想。そこでもたくさんの気づきを教えて貰いました。
そうそう。そこの裏の切り株がどうしても気になって、左手で触れましたら、電流のような衝撃が走りまして、いつものアレなのか!?と、思いました。私、時々変なものを身体にくっつけてしまうんですね。職場でくっつけてくるやつは悪いものだから、そういうのは勘弁して欲しいと思ってるし、運よければ振り払えるのですが、今回のはどうやら悪いものではないらしい。精霊さん…のようです。関東の自宅に帰ってきてからも、自然に触れたりすると、左腕がとても喜んでいるのがわかります。因みに、右耳あたりにも精霊さんぽいのが昔からいらっしゃるのですが、そいつは悪戯が飯より睡眠より大好きです。
そんなわけで、熊野の地ではいろんなものをもらいました。ただただ、ありがとうという気持ちと、また行きたいな、っていう愛しい想いでいっぱいです。
大きな心のブロックが外れたのが、今でもわかります。すごいなぁ、パワースポットって。相性の問題もあるけど、ここの場所は、本当に美しい土地なんだなぁ、って、心の底から思った。陰陽でいうと陰の地。蘇りの地とも言われている。自分の陰と向き合うには、とても愛に溢れた土地だった。
そう。
光だけの世界じゃない。
光と影。
両方あってこその世界なんだ。
旅に行く前にエレスチャルって言葉が浮かんでて、その石の意味を調べたら、自分の真実に向き合う、的なことが書かれてて、帰ってきて頷いてしまった。私らしくいられる世界を垣間見たわけだから。
なお、八咫烏さんには、「あなたのルーツは私たちとは違う」って八咫烏さんの神社で言われたので、果て、そしたら、私のルーツとやらが、そんなものはやっぱり存在するのね、ってわくわくした。
まだまだ、一歩を踏み出したばかり。
感じる心を、愛して、聞いて、優先させてあげよう。
そして、シンプルにね。
魂がすとんと、落ち着くような、身軽な身体と心で。
熊野旅行の写真とかアップしようと思ってたんですが、なかなかパソコンをさわる時間もなく。ブログ記事もバスの中で書いてることが大半で、そろそろ風化してしまう前にと、この記事を書きます。
そんなわけで、熊野本宮大社の旧跡地である、大斎原のお話です。
添付の鳥居は、大斎原にある、大きさで有名な鳥居です。雨が降ってる午前中にしか携帯で写真をとらなかったので、こんな写真なのですが、どうでしょ。何かを感じるかな。
鳥居に辿りつく前に、長い一本の田んぼ道があります。だだっぴろい、大地とそびえたつ山。すでにそのあたりから、ごうごうとエネルギーが湧き出ているのがわかります。
鳥居のあたりから空気ががらりと変わります。雑木林がお出迎え。ざぁざぁと降る雨とぬかるみの中を進み、木々とお話をしながらその道を抜けます。ゆっくりと、立ち止まりながらね。
そして広間に辿り着きました。その開けた土地を視界に入れた瞬間、本当に息が止まりました。そして、何故か涙がぼろぼろと出てきたんです。それはもうとめどなく。雨はいっそうに強まって、私は呆然と、その場に立ち尽くしてしまいました。
これでいいんだ。
その想いがどっと、身体中に溢れました。突然のことで何が起きたのかと思いました。けれど、その強烈な想いだけが私の身体中に溢れる。迷わなくていい。ありのままでいい。難しいことなんて考えなくていい。今のわたしでいい。それでいいんだよ。
こんなに強いひとつの感情は、とうてい、私1人が発せるものではありません。勿論、こんなこと思ったことない。この地が、教えてくれている。そう思わざるをえなかった。
ああ、これは、浄化が起きているな、と思いました。強まる雨と、湧き上がるエネルギーで、浄化がされている。そして、心のブロックの解除。
シンプルに生きる。
今をいきる。
頭で考えて進むのではなくて、行く先の点ひとつをただ望むだけで、あとは何も考えない。頭なんて使わなくていい。感じるこころをありのままに、そのまま動けばそれでいい。
そこで初めて私は、未来はコントロールできないんだ、って気づきました。どんなに何かを頑張ったって、いい未来を作ろうとしたって、それは自らの脳内の妄想にしかならなくて、自分の心は閉じていって、いつしか自分を苦しめて辛くなるだけ。
シンプルに生きる。
必要なものだけ、手にして、あとは自然に還す。それは物だけじゃない。心もおんなじこと。
そうすることで、私が私らしくいられる、って、確信した。
シンプル。
なんて気持ちいいんだろう。
自分の心が今感じることを、そのままに動く。なんにも考えなくていい。
熊野の地は昨年の台風の影響が、まだ、ありありと残っていて、その惨さを感じました。それはきっと、人がそこに何かを創り出して、それを守るから、壊れれば嘆き悲しみ、再生しようとする。
でも、自然にとっては、それは破壊ではない。木がどれだけ倒れようが、それは土へ還り新しい命が芽を出すし。上手く言えないけど、きっとそれは、ひとつの生きる姿なだけで、破壊ではない。
人も、そう考えたら、素敵なのにな、って思う。
私は、何かを必死に創り出して例え壊れてしまっても、特に嘆いたり悔しがったり、執着をしないで、何事もなかったかのように続きをはじめるので、周りからは白い目でよく見られるのですが、今回のこの土地での気づきで、ああ、私は現代人っぽくない、アメニズム思考の人間なんだな、って気づいてしまった。自然、こそ美しい。
だから、共感できる人が少ないのは、当たり前で、どれだけ少数派になっても、決して、私は間違っちゃいないのだと。確信した。かと言って、便利さを求める現代がダメと言ってるわけじゃない。
ただ、シンプルに、必要なものだけ感謝して取り入れて、ちゃんと自然に還す。光と、風の匂いと、大地の呻きと、空気の振動の柔らかさや、お日様のいいにおい。それを感じて、自然とともに生きる。その生き方を、今の生活に少しでも取り入れたら、私が私らしくいられる。
その後、世界遺産に登録されてる温泉、湯の峰温泉に入りました。毒でおかされた体を治したと言われる不思議な温泉。1組ずつしか入れないので、入るのに1時間半待ちでした。雨風寒い中、外でひたすら待ちました。
入ると、そこには大地のエネルギーを感じました。延々と熱い湯が湧き出ているので、時々水を足します。恐ろしいほど温まりました。そして、身体の細胞が蘇る、そんな言葉が頭にうかびました。果たして何が起きてるんだろう。制限時間は30分。あっという間でした。その間、なんだか、不思議な次元に迷い込んだ感覚でしたが、時間がきてそろそろ上がろうとした瞬間。壁の隙間から、なんとお日様が差し込んできたじゃありませんか。あれ、雨と風は!?
すっかり晴れてくれました。のぞめるは、山あいの煌めくお日様。
突然の光に、思わず息を飲みました。そして、声を出して感動してしまいました。
これは、もう一度、今度は晴れた大斎原に行くしかない!
目的地を変更して、急遽また大斎原へ。
二度目のそこは、もう、心も身体も魂も、るんるんに弾んでしまいました。全てに対して、ただ、ありがとう。そんな気持ちでいっぱいでした。すべてが愛おしくて、日の光を浴びている桜もあまりにも美しく見惚れてしまいました。本殿跡の裏側に回って、本日二度目の瞑想。そこでもたくさんの気づきを教えて貰いました。
そうそう。そこの裏の切り株がどうしても気になって、左手で触れましたら、電流のような衝撃が走りまして、いつものアレなのか!?と、思いました。私、時々変なものを身体にくっつけてしまうんですね。職場でくっつけてくるやつは悪いものだから、そういうのは勘弁して欲しいと思ってるし、運よければ振り払えるのですが、今回のはどうやら悪いものではないらしい。精霊さん…のようです。関東の自宅に帰ってきてからも、自然に触れたりすると、左腕がとても喜んでいるのがわかります。因みに、右耳あたりにも精霊さんぽいのが昔からいらっしゃるのですが、そいつは悪戯が飯より睡眠より大好きです。
そんなわけで、熊野の地ではいろんなものをもらいました。ただただ、ありがとうという気持ちと、また行きたいな、っていう愛しい想いでいっぱいです。
大きな心のブロックが外れたのが、今でもわかります。すごいなぁ、パワースポットって。相性の問題もあるけど、ここの場所は、本当に美しい土地なんだなぁ、って、心の底から思った。陰陽でいうと陰の地。蘇りの地とも言われている。自分の陰と向き合うには、とても愛に溢れた土地だった。
そう。
光だけの世界じゃない。
光と影。
両方あってこその世界なんだ。
旅に行く前にエレスチャルって言葉が浮かんでて、その石の意味を調べたら、自分の真実に向き合う、的なことが書かれてて、帰ってきて頷いてしまった。私らしくいられる世界を垣間見たわけだから。
なお、八咫烏さんには、「あなたのルーツは私たちとは違う」って八咫烏さんの神社で言われたので、果て、そしたら、私のルーツとやらが、そんなものはやっぱり存在するのね、ってわくわくした。
まだまだ、一歩を踏み出したばかり。
感じる心を、愛して、聞いて、優先させてあげよう。
そして、シンプルにね。
魂がすとんと、落ち着くような、身軽な身体と心で。