私は、この世界ではない何処か、を何時の間にか諦めたのだろう。日々の生活の中で、そう気づいたのは何の偶然だろうかと思う。

冬も終盤に差し掛かった二月。一通の手紙が届いた。同窓会のお知らせ、と封筒の表面、左下に太字で書かれていたその封書は、手にすればとても軽く、懐古で満たされる筈の心は、何処か身体の遠くに感じた。アパートの一室、鍵を開けて部屋に入る。ハサミを寝室にある本棚の1番下の引き出しから取り出して、キッチンにあるテーブルの上で封を開けた。シャキ、シャキ、と紙を切断する音が静かな部屋に響く。取り出した手紙は、蛍光灯に照らされて、機械で打たれた黒い文字をそこに並べていた。
平成16年度・春日井高校生卒業生同窓会のお知らせ。
そう、紙の中央に書かれた文字は、当時の記憶を思い出せと、私に訴えかけたが、高校時代の記憶など、もう幾分思い出していなかった為、漠然と、脳内に時間のズレを生じさせた。社会に出て、学生を辞めてしまえば、自分が学生だった事を忘れる。当たり前なのだろうか。現在の生活を考える時間ばかりが多くなって、昔のことなど思い出さない。会社で上司の態度のムラに腹がたつだとか、飲み会のセッティングに意見の相違が生じて同僚と気まずい雰囲気になっただとか、彼氏がしばらく出来ずに独女まっしぐらだとか、云々。それなのに今朝の朝食だって思い出す事に時間を要するのは、それなりに日常に当てはまることができているからだろう。空気のように当たり前だと感じる毎朝を繰り返している。それでも、なんとなく塗りつぶすこの日々に、確かに息をしている自分がちゃんといる。この毎日は、学生だったあの頃の延長線上にあるというのに、思い出さなくなったのは、今現在を私が迎え入れているからだろうか。そもそも懐古主義ではない。その考えに至るのだが、とにかく、学生の頃のことなど思い出そうとしたのは、随分と久しぶりのことだった。
私は椅子を引いて腰掛けた。紙を広げその内容に目を通す。よくよく見れば、三クラスあった学年全体で1つの飲み屋を貸し切って、三時間思い思いに語り合う、という内容だったが、恐らく全ての生徒が集まるとは考えていないのだろう。1つの飲み屋にあの全ての人数は収まりきらない。開催の日付けは一ヶ月後の、3月6日。9年前、卒業式があったのも、それくらいの日にちだった気がする。卒業式当時、大学受験組み等は進路が決まっておらず、お祝いムード一色とは言い難かったけれど、三年間の終止符を打つには感動的なものだった。卒業式が終わる、終業の言葉の前には、生徒達がどよめいて、何人かがステージに乱入する。皆で歌おうじゃないかと、有志の団体が指揮をとって当時流行った別れの歌を合唱した。涙を流し抱き合う女子生徒や、肩を叩き励まし合う男子生徒達。私はそれを見て、呆然と思った。いつかこれを思い出す時には、この生活のどのくらいが過去になって、どれくらいが残っているのだろう。今までがそうであったように、この数々の出来事も記憶となって、どれかは消えて、どれかは残るのだ。考えようもない空想に浸って、時間の流れというものをその頃からそういうふうに把握していた。
同封されていた参加申込ハガキには、不参加に丸をつけ、通勤鞄に押し込んだ。知っている。この世界は複雑なものを内包してやっとなだからに見える事を。私は、薄く目を伏せて、笑った。その同窓会のお知らせの封筒の下、重ねて置いていたもう1つの封筒を指で引き出し、差出人の文字を指でなぞる。何を、しているのだろう。封を指で破り開けて、中から一枚の写真を取り出した。何処かの山だった。木の生えない、見知らぬ外国の土地。この差出人から送られてくる写真を見る度に胸の奥が縮む。これこそは、私を今一番悩ませる正体で、今現在に私を繋ぎとめる唯一の好奇心だ。そして、これがいつまでどれくらいの形をもって残っていられるのかを、私は期待している。この写真に残る何かは少しずつ形を失って、その失った何かで、毎日毎日が少しずつずれていくのだろう。吸ってから吐いて口にする「懐かしい」が、吐いてから吸う「懐かしい」に変わって、いつの間にかそれも当たり前になって、私の身体に馴染んで、「懐かしい」という言葉を言う度に写真を遠目で眺める。諦めたような目で期待する。



時は三年前。二十歳を四年過ぎた歳の頃、私は偶然にも高校の同級生と出くわした。場所は今でも覚えている。駅前の大通りから隠れるようにして存在する、小さな個人経営の本屋。売り上げを伸ばす為に雑誌コーナーは広く設けられていて、そこに迷わず足を踏み入れる。私は、つい出たばかりの夏のボーナスで1人旅行でもしようとしていた。旅行ガイドを眺めながら空想に耽る。山と川の間を縫うように進む列車。空は都会よりも澄んで広々と鳥が横断し、匂いや音の跳ね返る感覚やら全てが、まるで神聖なものに思えてくる。日常からは離れた非日常、つまり旅。それというものを、私は他人としようとはどうも思えなかった。息抜きや、内省をする為に異世界に飛び込むのに、わざわざ他人と時間を共有するなどと考える人を、今でも私は理解できない。この夏には、また新たな土地へ足を踏み入れるのだ、と、期待に体中が軽かった。雑誌のひとつを手にとり、ページをめくる。数ある温泉を眺めていた所だった。左肩の方から人の気配がして、その人物は迷いなく海外の名前が書かれた雑誌を手にとった。その迷いのない潔い動きに、つられて左を振り返る。
「・・・掛川…くん?」
私がそう呼ぶと、彼はこちらを振り向いて不思議そうな顔をした。何故、自分の名前を知っているのだ、といわんばかりの表情で、眉根を寄せる。
「ホラ、高校の時、たまたまクラス3年間一緒だったでしょう?立木、沙苗」
彼は目を大きく広げて、けれど言葉を発する事はなく、雑誌を閉じてしまった。こちらを数秒見やって、それでも眉を寄せたまま動かない。
「覚えてないか。全然話さなかったからね」
「いや…女の子って、高校出るとみんな化けるなぁって。覚えてるよ。確か、立木さん静かな人だったよね。クラス3年間一緒だったのに、話す機会ほとんどなかったけど」
それには私は答えなかった。確かに、静かな存在だっただろう。掃除当番の割り振りには、必ず登場した。忘れ去られるような静かさではなく、誰かの主張を都合の良いようにかわすことで、荒波を立たさないという意味で静かだった。と、当時を思い返して言い訳じみた言葉を並べる。
「でも、お前、よく俺のことわかったな」
「そりゃ、目立ったから」
人との間に荒波を立たせる事において、よく目立った。クラスの団体生活において、調和を最も重要視する日本においては、彼はよく目立った。自分の意見を深く追求する性格だったのだろう、集団の同調意識の波の中では、異質に見えた。別段、文化祭で1人意見を押し通そうとしたり、争ったりした訳ではない。彼に攻撃性は皆無だ。ただ、彼は自分の考えが他者と違う事を理解して、あえて集団に溶け込まず孤立していた。そういう意味で異質で、目立ち、必然的に波を荒立たせていた。1人、浮いていることを、厭わずにそこに在ろうとしていた。
ああ。そこに私は、同胞意識のようなものを抱いていた。それを一時の世迷い事と思い込まなかった事は、我ながら利口だったと思う。自分の中での他者の捉え方は方向性こそ違うものの、彼は私と随分似通っていると思う。他人と自分は違う、そういう思春期特有の自尊心の在り方。それが同じなのだ。きっと、彼は私と同じ側の人間だ。彼にそれを伝えた事も無いし、彼も私がそう考えているなどと気づきもしなかっただろう。実際、同じクラスに居たのに、話すことも全くなかったのだから。彼はそれをどこまで認識していたのかは解らないけれど。

「今、何してるの?」
私は雑誌を元の場所に戻して、彼を見上げた。身長の差がこんなにもあった事に初めて気付く。
「不動産屋で、営業してるよ。最近じゃ、管理会社から、リフォームの図案を任されたり…まぁ、そこそこ順調。そっちは?」
「コールセンターで、毎日苦情受付係り。おたくのテレビ、映らないんだけど、って言われるから、配線の出張手配して、それでおしまい」
「へぇ、苦労してるんだねぇ」
彼は別段大変そうにも思ってない顔で、口を開いた。会話をするのは6年もぶり、それどころか初めての状況なのに、そこに距離を感じなかったのは、同じ高校出身である、という繋がりがあるからだろうか。共有する懐古の感覚は、共有意識として互いの溝を浸し繋げるのには十分な役割を果たしてくれる。
「まだあの街に住んでるの?」
「いや、俺今はそこの駅から割と近い所に1人で居るよ」
「へぇ、吃驚。私もそこの駅に随分前から住んでいるのよ」
「それは吃驚だね。でも、そのついでにもう一ついいかな」
彼は手に持った雑誌を完全にラックに差し込むと、薄い唇の端をにいと持ち上げた。その表情は、大人の精悍な顔立ちの中にも、高校時代の無邪気さを垣間見せた気がした。もぞり、記憶の片隅で生じたズレが音を立てる。
「3年間の間で全く話さなかったわけではないよ。一度だけ、俺と話したの覚えてる?」
「・・・」
覚えていない。私は言葉を次げずに、彼を見上げる。言うべき言葉も見当たらずに、全くのお手上げだった。仕方なく彼の言葉を待つ。
「じゃあ、夕飯でも食べながらどうだろう?」

それは、久しぶりに会った異性の友人と夕飯を共にする口実なのだろうかと思った。高校から一時間は離れた土地で偶然にも出会った同胞は、六年も見ない間に、女の子を誘う口の利き方を身につけたのだろうかと、勝手に一人がっかりした。クラスで一人孤立していた少年は社会に出て、さまざまなものを人におしつけておしつけられて、時を食いつぶしたのだろうか。彼ならば、私と時を同じくして過ごすだろうという身勝手な想像をしてしまっただけに裏切られた気分がする。けれど、その一度の会話とやらを、彼は懇切丁寧に、夕飯の席で語ってくれることになり、私はそのおかげで、うっかり彼との次の夕飯の約束をとりつけてしまうことになる。私はそれが偶然の出来事には到底思えないのだ。

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