先日の安倍晋三氏銃撃事件をきっかけに
統一教会の現状の一部を知り
宗教って?信仰って?
ということが気になり
最近は関連のYouTubeを見るなどしていました。
1970年代頃に
新興宗教が数多く生まれたようなのですが、
時代背景も関係しているようです。
1960年代頃からの世界情勢
ベトナム戦争、ケネディ暗殺、黒人の公民権運動、
安保闘争、高度経済成長、などなど
世界でも日本でも
世の中どうなっていくのだろう?と
不安になるような出来事も多く
何を信じれば良いのか
悩み惑う人が多かった時代なのかもしれません。
統一教会は1954年に韓国で創設されたので
少し早いですが、
オウム真理教は1984年、
幸福の科学は1986年に日本で始まりました。
私は熱心に一つの宗教を信仰した経験が無く
理解しきれない部分もありますが
信仰により救われる
ということはあるだろうと思っています。
辛い経験が重なった時
大きな悩みに直面した時
それを乗り越えるのは自分です。
どうやって乗り越えるかは人それぞれ。
乗り越えるのか
いったん沈み切るのか
向き合うのか逃げるのか
歩む道も人それぞれ。
その時に
信じるものがあって
それが道標になってくれたら
心が楽になったり
勇気づけられたり
するんだろうなと想像できます。
本来、人を救うための宗教。
それなのに
宗教が問題視されたり疎まれたり怪しまれたり
実際に事件を起こしたりするのは
なぜなのか。
端的に言えば
金銭問題、
他人の「信仰の自由」を侵すこと、
この2つに集約されるのかなと思いました。
まず前者ですが
本来信仰するのに金銭は必要ないと思うんです。
信仰とは心の中のものですから
お金には代えられない精神世界です。
しかし
教会を作ったり
教団で働く職員に手当てを支払ったり
そういうことをするとなるとお金が必要です。
そのため
信者からお布施なのか募金なのか
お金を集めるようになるのでしょう。
でもそれは本人の意思で
できる範囲で行えばよいことだと思うんです。
それを
お金をたくさん払えば
罪が償えるとか
悪魔が去るとか
そんな風に言うからおかしいのです。
純粋な信仰心に漬け込んだ搾取です。
心を救ってくれるはずの宗教
人生の道標となってくれるはずの宗教が
有金すべてを持ち去って
未来を奪って
家庭を崩壊させて
人生をめちゃくちゃにするなんて。
人の弱みに漬け込むひどいやり方です。
金銭問題と繋がっているもう一つの問題が
他人の「信仰の自由」を侵すこと。
自分が良いと信じているものを
人にも教えたいというのは
善意ですから、
純粋に善意で宗教を勧めるという行動そのものは
非難されるほどのことではないと思います。
ただし
その人自身に信じるものがあるように
他の一人ひとりにも信じるものがあるかもしれず
何を信じるかはそれぞれの自由です。
だから
この宗教を信じないと幸せになれない、とか、
この宗教だけが正しい、他は間違っている、とか、
そこまで言ってしまうと
他人の信仰の自由を侵しているわけです。
そうなると迷惑がられてしまうでしょう。
宗教って厄介だ、
話が通じない、洗脳されている、とか
言われてしまうことにもなりかねません。
それから
末端の信者は純粋に善意で勧誘していたとしても
それを促す幹部達は
結局資金調達が目的なのではないか?
という懸念もあります。
入信するのにお金が必要となると
やっぱりお金目当てか…
と感じてしまうのは、私だけではないと思います。
そういうわけで、私のような人間は
無料で
都合良く自由に
信じたいものを信じるのです。
これが真の「自由な信仰」だと思う。
何をしちゃダメとかしなきゃダメとか
お金を払わなきゃダメとか
こうしないと幸せになれないとか
そんなの人から言われたくない。
自分のことは自分で決める。
それにしても
側から見たら矛盾だらけで
ツッコミどころ満載の教えを
盲信して
身も心も資産も捧げるようになるのって
なぜなのでしょう。
その心の操り方、洗脳の仕方が気になります…。