社会に出る前の学生に、多額の借金を負わせる日本の奨学金制度は、それ自体に対する批判も多い。しかし、学生に貸与された奨学金を学費として受け取るのは、教育機関である大学である。日本学生支援機構の遠藤勝裕理事長は、「奨学金制度のステークホルダーは、学生以上に大学だ」と指摘し、奨学金の貸与にふさわしい教育サービスを提供しているかを、今後は機構としてもチェックする必要があると話す(奨学金「貧困問題」、最大の責任者は誰なのか)。まずは今年夏頃に、奨学金延滞者の割合を、学校別に公表するという。
実社会で求められることと、大学が教える内容がマッチしていないという声は以前から根強い。また、偏差値が低い大学に対しては、「本当に必要なのか」という風当たりが、特に強いようだ。このような状況の中、現場に身を置く大学教員は、どのようなことを感じ、世間の批判にどのように答えるのか。奨学金が支える「Fランク大学」の葛藤と不安でも取材に協力してもらった、聖学院大学(埼玉県上尾市)の柴田武男教授に話を聞いた。
■教育に熱心な教員ばかりではない現実
――奨学金問題の記事に対する読者からの反応を見ても、大学に対する目が厳しさを増している印象があります。
現状では、大学の教育が社会の期待に応えられていないと言われても、直ちに否定することはできない。奨学金の問題など、学生の教育のことについて熱心に考えているのは、自分の周りでも片手で数えられるくらいかな、と思いますし。
日本学生支援機構の遠藤理事長が言う、「奨学金の貸与にふさわしい教育サービスを提供すること」の必要性をもっとも実感しているのが、われわれFランクの大学です。「少人数で、面倒見がいい」ことを大学としても掲げているけど、こんなことは経営の大前提なんですよね。
僕たちの世代は、3分の1しか大学に行かなかったんですよ。ある程度頭がよくて、勉強が好きで、という人だけが、勝手に勉強して大学にいっていた。でも今はそうじゃない。手取り足取り、どうして、今、これを勉強しなくちゃいけないのか。それをしっかり教えられる大学じゃないと生き残れない。そういう頭の切り替えが大切です。
――学生に対して、具体的にどのような教育が重要と考えている?
若者は、学ぶ意義に気づくと、伸びます。それを引き出すために、どのようにして刺激を与えるかが重要。ただ、それぞれの学生のスイッチが、どこにあるのかを見極めることは難しい。どこを突っつくべきなのかは一見して分からないから、とにかく突っつくシステムを、我々は用意したい。
――職業に直結するというわけではなく、方法として少し抽象的な印象を受けますが。
文科省からも全く同じことを言われていますよ。教育プロジェクトに予算つけて欲しいなら、数字で可視化できる形にしてくれと。つまり、効果を計れる物差しをきちんと用意してから、提案して欲しいということですね。税金を投入する側からすれば、カネを出す価値を説明してみろって、大学に言いたくなる気持ちも、十分理解できる。ただ、教育に対して目に見える効果と言われても、なかなか難しい。
■資格を取れば、社会を渡れるわけではない
――教育が職業に直結していないというのは、どこの大学も似たような状況でしょうか。
いや、その点については、開き直っている大学もありますよ。「大学には就職のために来てるんだ」と、完全に割り切っていて、それが学生に対するアピールになっている。例えば、千葉商科大学とかそうですよね。正直言って、これは説得力あるんですよ。その証拠に、うちよりはるかに学生を集めている。これも教育に対する1つの考え方だと思います。でも、資格さえあれば、本当に世の中を渡っていけるかという疑問もありますけどね。
――その疑問とは?
企業の人事の方とよく話すので、会社が就職活動をする学生に対して何を求めているかを聞く機会があります。それは何かというと、社会人基礎力。つまりはコミュニケーション能力ですよ。では、その具体的中身は何かというと、人の話を聞いて理解する力です。これは当たり前のスキルのように思えて、結構ハードルが高い。何を会社が要求していて、自分がどうしたらいいのか。自発的に自分で何をしたらいいのかを考えて、率先して行動するということでしょう。それを資格対策で教えられるんでしょうか。
――日本で仕事をすると、入社して配属が決まらないとどういう仕事をするかも分からないこともある。まずは人間性が重視される傾向はありますね。
そうです。日本の雇用が特殊なのはご存知かもしれませんが、職務を限定することなく雇用契約を結びますから、配置転換と転勤が自由にできます。日本の企業でうまくいく人材とは、会社の求めた様々な職種に、自由円滑に対応できる人ということになるでしょう。これが日本の組織の中では、一番大切なわけですよ。
――そのスキルを身につける方法は?
専門的な勉強のツールを通して、社会の仕組みを考える力を養うことが重要だと思います。対象は何でもいい。政治経済でも、人間福祉でも、シェークスピアでも。僕だったら専門は金融市場論だけど、今だったら例えばマイナス金利の意味を考えてみるとか。人の言ったことを聞いて理解するということが本質で、個別の学問はあくまで通り道に過ぎない。
――学問を通してコミュニケーション能力を高める、という方法は迂遠な印象もあります。学生に効果は出ているのでしょうか?
正直なところ、そう簡単ではないでしょうね……。私だって大学や学生の現状がどうなっているのかは、嫌というほど分かっている。でも、理念は現実とずれているからこそ、理念なわけです。本当は「大学で学ぶことに価値がある、考えること自体に価値がある」と言いたい。でもそれが通じるかは現実としては厳しいかもしれません。企業だって採用の時は大学の成績を見ているわけだし、「しっかり大学で勉強をして、いい会社に正社員で入って、給料をきちんともらいなさい」って……。どうしてもそういう言い方で、4年間の学業の意味づけって説明せざるを得ない。
■競争による「不安社会」から自由になれ
――そこでしか結びつかないとすると、やはり「大学教育の貧困」を批判されてしまいそうですが。
それは否定できません。ただ、教育はもちろん大切なのですが、学校教育がすべての問題を解決できる万能のツールではない、という面もあると思います。お金は大切ですが、お金だけで人は幸せにならないのと同じ。家庭も然り、友人も然り、いろいろとよってたかって人生ではないですか。人生とは複雑でいい加減なものです。そのいい加減さをどう認めるのか。それが現代社会の課題だと思うんですよね。
――そうした、社会の余白、膨らみが大切だと。
そう。教育、さらに学校制度は何のためにあるのかと問われれば、それは、急速に変化する世の中から切り離して、子ども達を立ち止まらせるためだと思います。偏差値社会は、序列社会です。人を押しのけて、這い上がろうという意識に満ちています。それがいきすぎて、「自分は本当に勝ち残れるのか」という気持ちが蔓延する、不安社会となっている。
色々と言われていることは分かっているけれど、私はBF(ボーダーフリー)の大学こそ、日本の希望だと思っているんですよ。決して絶望して居直っているのではありません。私たちだからこそ、教えられることがあると思うのです。それは、「人の物差しで生きるな」ということ。いわゆる高偏差値の大学の学生では、社会の物差しから自由になれないし、なろうともしません。私たちは、Fランクですから、社会の尺度からは比較的自由。それは、この生きにくい社会での優位性だと、我々は考えてます。
人の尺度で生きるのはやめて、自分の価値観を信じる。大学の教員として、それを支える側に立ちたい。私たちの大学の学生は、のんびりしすぎて心配な面もありますが、優しさに満ちています。その優しさこそ、今の日本社会にとって何よりも大切だと、私は信じているのです。