◆そんなこんなで、今年もよろしくお願いします。

ご無沙汰しております。
いつの間にか新しい年になりましたね(笑)。
実は、昨年の12月29日に徳島に住む父が他界しました。
67歳でした。
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病気が発覚したのは、昨年の4月。
末期の大腸癌でした。
3年前ぐらいからずっと自覚症状はあったものの病院に行かず、
行った時はもう手の施しようのない状態でした。
私と妹は抗がん剤治療には反対で、他の治療方法を勧めたりもしましたが、
父は抗がん剤治療を選択しました。
抗がん剤の副作用も最初は「だるい」ぐらいで、休みながらも仕事もできる
状態でした。
私は奈良、妹は京都に住んでいるのですが、一緒に泊りがけで徳島に行き、
料理を作ったり、身の回りの世話をしに行っていました。
この時もそうですね。↓
http://ameblo.jp/slowday/entry-11880008205.html
妹も水素水や古代米のサプリメントを送ったりしていました。
父も一生懸命飲んでいたと思います。
しかし、5回目の抗がん剤投与(7月)でアレルギー反応。
そこから体調が一気に悪化しました。
高熱が続き、ほとんど寝ている状態に。。。
電話で頻繁に父の体調を確認していたのですが、私もすぐに様子を見に行くことは
できないので、叔母や(離婚した)母に頼んで様子を見に行ってもらいました。
このころから、疎遠だった父と母の距離も少し近くなりました。
そんな中でも、8月のお盆は私の家族や妹夫婦、親戚が集まって
みんなで食事することもできました。
しかし、抗癌剤はやめていたにも関わらず、体調は悪くなる一方で、
とうとう10月に緩和病棟に入院することになりました。
2週間おきに妹と代わりばんごに病院に行き、一緒に食事をしました。
そんな状態でも、豚カツやお肉など、食べることには貪欲だった父。
誰かと一緒に食事をするのが大好きでした。
12月半ばには、みんなで病院で島根から送ってもらったカニを食べたりもしました。
その後、頻繁に病院に行ってくれている叔母や、母から、
最悪の事態を覚悟しておいたほうがいいことを知らされた。
そして、12月28日の夜中、
今夜が峠かもしれない、という連絡があった。
すぐに2~3日分の着替えを用意し、子供2人を車に乗せ、
ダンナさんが車を走らせた。
年末だったけど、夜中だったので道は混んでいなかった。
2時間半で徳島の病院に着いた。
間に合った!
妹たちもレンタカーを走らせて来た。
父はもう話すことはできなかったが、話しかけると口を動かして反応した。
私たちがいることは理解していた。
手や足の指先が冷たかった。
こうやって魂がだんだんと抜けていくんだなと思った。
手を握って話しかけ、口元を湿らせた。
最後まで耳は聞こえているらしい。
それから約16時間後、親戚たちに囲まれ、
父は天国に旅立った。
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私の育った家庭は、ちょっと変わっていたと思う。
工務店の社長だった父は、ほとんど家に帰ってこなかった。
若いころの両親は、父の女性問題でしょっちゅうケンカをしていた。
幼いころは、祖母と同居していたので、
「ケンカをやめさせて~!」と祖母にお願いした。
祖母がいて、本当によかったと思った。
外食や遊園地などに父はよく遊びに連れていってくれたけど、
母はほとんど家で留守番をしていた。
母は専業主婦だった。
小学校から帰ると、たいてい母は寝ていた。
それでも、鍵っ子じゃなくて良かった!と思っていた。
次第に母は、ソシアルダンスにのめり込むようになった。
父と一緒に踊りたいように思えた。
父は何十年も同じ女性と付き合っていた。
段々と両親の激しいケンカはなくなったけど、
時々母は激しくぶち切れた。
父も商売をたたみ、ふたりで一緒に徳島に帰ったが、
ほどなくして離婚した。
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好きなことをしていた父。
時に周りに迷惑をかけながらも、愛されていた。
父は最後に何を思ったのだろう?
人生とは。
夫婦とは。
幸せとは。
私は最後に何を思うのだろう。
私の生きた証とは?
ぐるぐるぐるぐる。
きっと答えはシンプルなんだろうけど。
これも最後に父が教えてくれたことかな。