私が両手をひろげても
金子みすゞ
『私と小鳥と鈴と』| COVID-19
金子みすゞの詩『私と小鳥と鈴と』は、「できること」と「できないこと」の違いを静かに見つめ、それぞれの存在を肯定する言葉で結ばれている。
みんなちがって、みんないい
この一節は、多様性を尊ぶ価値観の象徴として、長く人々に受け入れられてきた。しかし、コロナ禍という非常時において、私たちは一つの問いに直面する。
その「違い」は、果たして常に守られるべきものなのか。
感染症は、個人の行動や価値観の差異を通じて拡大する。マスクをするか否か、移動するか自粛するか、その選択の違いが、時に他者の命を左右する現実が生じた。
ここでは「違い」が美徳ではなく、リスクとして立ち現れる。
なぜ、世界ではコロナウイルスにより130万人もの人々が命を落としたのか。その規模は、第二次世界大戦中に投下された長崎と広島の原子爆弾による死者数15万〜24万6000人を遥かに凌いでいる。
この現実を前に「戦争の形が変わった」とする見方もある。それは核兵器から生物兵器へと戦争手段が移行し、その科学技術を駆使した"第三次世界大戦"の勃発であるという説も出ている。
武器による破壊ではなく、ウイルスという不可視の存在による脅威。そこでは国家の統治能力と国民の行動が、直接的に生死と結びつく。
こうした状況の中で、各国は異なる選択をしてきた。強権的な封鎖や厳格な管理体制、デジタル技術を用いた行動追跡など、感染拡大を防ぐために、自由やプライバシーを制限する手段が導入された国もある。
それらは「命を守る」という名目のもと、一定の効果を上げたとされる一方で、個人の尊厳や自由との緊張関係を生み出した。
他国の例として、コロナ感染者「ゼロ」とする北朝鮮では、感染者を見つけ次第にすぐ撃ち殺しているという報道がある。それは、ウイルスを拡げないように国家と国民を守る為だというが、私達もそのようにするべきだろうか。
その隣の中国では、監視カメラと顔認証システムの導入からインターネット上のビッグデータを利用し、国民全体を管理するシステム「天網」を構築している。
その街頭の監視カメラの数が約2億台(2017年時点)、2021年までには約6億台にのぼるとのことである。
そして、このデジタル技術が、中国の人口約14億人に対して、ウイルス感染を抑える為に大きく貢献しているとされる。
日本においても、経済活動と感染対策の両立を図る政策が打ち出され、行政のデジタル化が進められている。利便性の向上や接触機会の削減といった利点がある一方で、国家と個人の関係は、これまで以上に密接なものとなりつつある。
そこでは、制度そのものよりも、それを運用する「政府」と、それを受け入れる「国民」との間にある信頼が、決定的に重要となる。
この状況は、社会心理学者エーリッヒ・フロムが論じた「自由」の問題とも重なる。フロムは、人間が自由の不安から逃れるために、権威への依存や服従を選びやすいことを指摘した。
個人が孤独や無力感を抱くとき、画一的な秩序に身を委ねることで安心を得ようとする。その姿は、非常時における統制の受容と無縁ではない。
では、私たちは従属か、完全な自由か、その二択しか持たないのだろうか。あるいは、そのどちらでもない第三の道を模索することができるのだろうか。
コロナ禍は、私たちの生活様式と価値観を根底から揺さぶり、新たなグローバリゼーションの形を浮かび上がらせた。科学技術と人間がより深く結びつき、ネットワークを通じて能力が拡張されていく未来も想像される。
いつか「わたし」が、両手を広げて空を飛ぶ日が来るかもしれない。
だがそのとき、私たちは問われ続けるだろう。その自由は、自ら選び取ったものなのか。それとも、不安と引き換えに差し出したものなのか。
金子みすゞの詩が語る「オンリーワン」は、ただ違いを認め合うことでは終わらない。非常時においてなお、自ら選び続けようとする人間の意思そのものを問い返す言葉なのではないだろうか。
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