2004年3月21日の日記より | 『泣きながら歯磨き』

2004年3月21日の日記より

 この日、なぜか僕は彼女と一緒にカレーが食べたくてしかたなかった。まるで遺伝子に刻み込まれている本能のような、そんな強い衝動が僕を駆り立てていた。
 彼女は決して治らない病気を患っていて、この日も本当につらそうだった。それでも僕は彼女を無理矢理外に連れ出し、渋谷の「パク森」というカレー屋へ向かった。
 渋谷へ向かう電車の中で、彼女は身体の不調を訴えた。僕は彼女の手を強く握った。引きずってでも「パク森」まで連れていくつもりだった。
 僕はどうしても彼女と一緒にカレーが食べたかった。

 渋谷駅の改札を出て、ハチ公の前を通り過ぎ、スクランブル交差点を渡り、109が見えたあたりで、僕が繋いでいる彼女の手から体温と共に、少しずつ、少しずつ、何かが消えていくのを感じた。
 彼女は虚ろな目で僕を見ながら囁いた。
「もうダメかもしれない……息ができないの」
「がんばって、もう少しだから」
「もうダメって言ってるじゃない! あなたは花粉症のつらさがわからないの?」
「わかるよ」
「嘘つかないでよ! 花粉症になったことないのに分かるわけないじゃない! ばか!」
「ごめん。だけどさ、俺、花粉症になったこと無いけどさ、でも、つらいってことは分かるよ」
「もういい。もう私は死んじゃうんだ」 急に弱気になる彼女。その身体は花粉に蝕まれ、もはや精神的にも肉体的にも限界だった。
「大丈夫だよ。死なないよ。カレーを食べれば元気になるよ」僕は彼女を励ますことしかできなかった。
 
 強い想いは、極希に偶然を装い奇跡という形で姿を現す。
 
 店に着いて、僕らはパク森カレーを2つとラッシーというヨーグルトのような飲み物を1つ注文した。
 彼女は美味しそうにカレーを食べた。美味しそうにラッシーを飲んだ。そして、みるみる元気になっていった。
 カレーを食べ終えた彼女は満足気に「ごちそうさまでした。おいしかったね」と言った。それは、あの元気だった頃の喋りかただった。正しくは機嫌が良い時の喋りかただった。カレーが美味しかったので機嫌が直ったのだ。
 お会計をしながら、僕はカレーに感謝した。「アリガトウ」と誰にも聞こえない声で呟いた。
 
 店を出た後、ほのかにカレーの香りがしたけれど、しばらくして、春の夜風と共に消えていった。