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今日の中日新聞記事より
『サッカーJ2のFC岐阜は二十九日、ブラジル一部のアトレチコ・パラナエンセから期限付きで移籍していたFWレオミネイロ選手(26)=写真=が、期間満了で退団すると発表した。
同国出身のレオミネイロ選手は二〇一五年に加入。今季は三十八試合に出場し、チーム最多の13得点でJ2残留に貢献、インターネット上のファン投票でMVPに選ばれた。
11月に受験した大学院の二次試験の合格通知が届きました。
今までは科目履修生でしたが、これで来年からは晴れて正規の院生ということになります。ここまで苦節5年、何度も挫折しかけたのですが、何とかたどり着けました。仕事しながら学ぶということの大変さを身に染みて味わいました。
通信制といって決して軽く見ないで欲しい。ここまで何度も定期試験の出来が悪く、単位落としてはまた学費払ってきましたから。
いよいよ 修士論文の準備にとりかかることになります。
私がかって「海の男」であった事を知る人は意外に少ない。というよりその事を私自身長い間封印してきたからだ。封印の理由はどうでもよいのだが、そろそろそれも解禁の頃になってきたようだ。
私が社会人になる1970年代は、日本は高度成長期(と言っても終焉近かかったが…)の間只中、重厚長大産業が日本経済をけん引していた。企業(特に鉄鋼、重電、造船、化学、エネルギー関連)のエネルギー消費量は年々増加し、エネルギー源である石油や原油の確保が、最重要課題でもあった。そんな中、日本の海運業界は船舶の巨大化(終戦時期の戦艦大和伝説に似ている。)を推し進めていた。特に石油輸送のタンカーは巨大化し、日本の船舶は「日の丸艦隊」と呼ばれ「花のペルシャ湾航路」は日章旗で埋め尽くされていたとも言われていた。
私はそんな時代に社会人となり、東京の船会社に商船士官(エンジニア)として就職した。昭和海運(現在は日本郵船) 当時大手六社に入る船会社であったが、前身が「日本油槽船」というタンカー専門会社であったので、タンカーの保有率が圧倒的に多かったように思う。
会社本社は日本橋室町3丁目にあったが、初めて今でいう会社訪問に行った時の事をよく覚えている。
入社試験も面接試験もなかった。いきなり昼食に誘われて、近くのビル(チサンビル?)の地下のステーキ屋さんで豪華な昼食をいただくというのが、今から思えば面接試験であったようだ。話の内容は雑談のみであった。
最後の帰り際に「乗船する船が決まったら連絡するから」という簡単な一言であった。その頃の重要な連絡は「電報」であった。
最近は便利な世の中になったものだと思う。40年前に私が初乗船し「商船士官見習いデビュー」した船の写真がネットで検索できました。なつかしいですね。
「昭和丸」 30万トン級の原油タンカー 日本とペルシャ湾をつなぐ航路に就航していた定期船であった。確か「東燃」の専用チャーター船でした。主機関 一万馬力以上のIHI蒸気タービン。
最新鋭のタンンカーで当初「これに乗船するのは昭和海運のエリート」と言われていたようですが、処女航海で大きなエンジントラブルを起こし、私が乗船した時は、そのような言葉も影が薄くなっていました。
「○月○日 ○時 川崎第○サンパン小屋 より昭和丸乗船されたし」
こんな感じの内容の電報だったと思います。
通船に乗り、はるか沖の彼方にある巨大船を発見した時には「いよいよ 自分もこの船に乗るのだ!」という意気込みと不安が複雑にからみあっていました。
初航海は、川崎 ⇒ ラスタヌラ(ペルシャ湾) ⇒ 川崎東燃製油所でしたね。
そして40日の一航海で転船、約3週間の待機期間後今度は千葉にて「パシフィック丸」に乗船しました。その船の写真も検索できました。ミッドシップ型の古いタンカーです。ペルシャ湾シャイバとジャカルタ、日本を航海するナフサ船です。この船の乗船から正規の仕官に昇格したのです。
この船は老朽化船であったため、当時韓国に売船ということで、その年の暮れ、東京にて下船するまでの4航海 日本とペルシャ湾を往復しました。
その後 いろいろな船に乗船しましたが、一時はカーフェリーに乗船したこともあります。名古屋 → 仙台 → 苫小牧 名古屋 → 大分 の航路です。
この写真は現在の「いしかり」ですが、私のフェリー初乗船は「初代のいしかり」でした。
貴重な写真がありました。その当時の私の写真です。当時は 3rd Engineer でしたので、金筋1本です。多分27歳の頃の写真でしょう。「いしかり」の最上部甲板ファンネル部で、記念撮影したものです。正月に記念の航海で、小笠原諸島父島のクルージングに行った時のものだと記憶しています。1月2日、乗客が上陸している時、Captain主催の船内の新年祝賀が行われ、その時のものです。
となりには当時のマリンガールのSさん。特に関係はないです。
私にもこんな若くて、輝いていた時代があったのです。
「海賊とよばれた男」が封切られ、早速見に行ってきました。
岡田准一の演技も迫力ありましたが、そもそもこの物語は実話そのものです。こんな、ど迫力のある男が、この国にはいたのだと思うとうれしくなってくるのですが、自分自身が若き頃、このような石油輸送の世界にいた経験から、何かジーンと熱くなってくるのを感じます。
この物語のサブ主人公 初代「日章丸」の雄姿。映画の中では「日承丸」となっています。
最新鋭の出光タンカーの「出光丸」参考までに。
「日章丸事件」について、ウィペディアの解説文を紹介します。
「大英帝国下の影響にあったイランは、第二次世界大戦後独立していたものの
当時世界最大と推測されていた石油資源はイギリス資本の元、イラン国庫にも、
国民にも利潤が回らない状況にあった。その中で、イランは1951年に
石油の国有化を宣言。反発したイギリスは、中東に軍艦を派遣し、
石油買付に来たタンカーの撃沈を国際社会に表明する。事実上の経済制裁・
禁輸措置を執り行っていたイギリスにイランは硬化した。これらは
アーバーダーン危機と呼ばれ、戦争が近づきつつある情勢となっていた。
同じころ、日本でもアメリカによる実質的な間接統治下にあり、
石油を自由に輸入する事が困難な情勢になっており、経済発展の
足かせとなっていた。イラン国民の貧窮と日本の経済発展の足かせを
憂慮した出光興産の出光佐三社長は、経済制裁に国際法上の正当性は
無いと判断し、極秘裏に日章丸(タンカー・同名の船としては二代目)を
派遣する事を決意。イギリスとの衝突を恐れる日本政府との対立も憂慮し、
第三国経由でイランに交渉者として出光計助専務を1952年に極秘派遣。
モハンマド・モサッデク首相などイラン側要人と会談を行う。
イラン側は、合意しても貿易できないでいる前例と当時中小企業に
過ぎなかった出光を見て初めは不信感を持っていたという。長い交渉の
末に合意を取り付け、国内外の法を順守するための議論、日本政府に
外交上の不利益を与えないための方策、国際法上の対策、法の抜け道を
利用する形での必要書類作成、実行時の国際世論の行方や各国の動向予測、
航海上の危険個所調査など準備を入念に整えて日章丸は1953年3月23日9時
神戸港を極秘裏に出港する。
当時連合国軍最高司令官総司令部によって義務付けられていた正午報告
(位置報告)に罰則規定が無い事を見つけ、それらを行わず、
航路も偽装してイギリス海軍から隠れる形で4月10日イランに到着。
この時点で、世界中に報道され国際的な事件として認知された。
日本においても、武装を持たない一民間企業が、当時世界第二の
海軍力を持っていたイギリスに“喧嘩を売った”事件として報道され、
連日一面記事で報道された。
4月15日急ぎ石油を積んだ日章丸は、国際世論が注目する中、
イランのアーバーダーン港を出港。浅瀬や機雷などを突破、
イギリス海軍の裏をかき回避する事に成功し、海上封鎖を突破して
5月9日9時に川崎港に到着した。以降、石油はイギリスのものであると
仮押さえ処分の裁判(東京地裁)になり、同時に出光に対する処分圧力が
日本政府にもたらされたものの、イギリスによる石油独占を快く思って
いなかったアメリカの黙認や、喝采を叫ぶ世論の後押しもあり、
行政処分などは見送られた。また、裁判でも出光側の正当性が認められ、
5月27日仮押さえ処分が却下され、即日東京高裁に控訴するものの
10月29日取り下げし勝訴確定した。これを嚆矢に石油の自由な貿易が
始まるきっかけとなった。
放送作家の百田尚樹は、出光佐三の生涯を題材として著した小説
『海賊とよばれた男』にて、この日章丸事件の詳細を描いた。
本当に、出光さんのものすごい偉業だ。
このような多くの日本人の功績によって、今の豊かな生活がある。
そして、石油、、、。
エネルギー資源の確保にどれだけ日本が苦労してきたか、、、。
もちろん私は戦後の人間ですから知りませんが、多くのタンカーマンからこの話をよく聞かされていました。










