呼吸をするのと同じように、

人生も吸って吐いて、

何かを吸収して、何かを作り出さなきゃいけない。


いや、出さずにはいられないのかな。


でも、大抵私は涙か溜息しか出せない。



今日は白洲次郎の話を読んで、かっこ良すぎて、

今の私は一体なんなんだと、苛立って、

でも結局自分に何ができるのだろう、と帰り道に泣きそうになって

ふと右を見たらオレンジ色の三日月がひっそりと、

でも異彩を放っていた。


あの三日月みたいに在りたいと思った。

同じことに何の価値があるだろう。

異様でも、誰かの足を止める力があるなら、

それはどんなに強くてキレイか。

私はそうなりたい。


なんて、思いつつその覚悟はなかなか出ない。


だいたい、今まで。。。とくにここ5年は人と違うことを避けてきた。

髪型だって服だって、時には価値観だって。

何やってんだか。


それでも、今まで素敵な人ややさしい人に囲まれていたことが、

作られた私だからじゃないと信じたい。

間違えを恐れている私だから、みんながあたたかかったと思いたくない。

弱い私だから、みんなが優しかったとは思いたくない。


白洲次郎のように、自分らしさを貫けた人がいた。

けど白洲正子のように、カリスマの横でもがき苦しみ一生懸命吐き出す人もいた。

(もちろん、カリスマももがき苦しんだりもしてるんですが。)


今日の異様な月を見て、ああなりたいと、でもなれないと、モヤモヤした私は白洲次郎のように強くはないけれど、白洲正子のように葛藤していた。


と言ったら過言だけれど、でもきっと正子のように強くてキレイにはなれるはず。

その覚悟ならある。


きっとどんなに安泰な日々を送っていても、私はオレンジ色の月を見ては

中2のようにもがき苦しんでしまうのだから。

あとは吐き出すだけだ。

溜息でも涙でもない、けれど恥ずかしいくらい弱い自分を。作られていない自分を。

先週からダイエットを再開し、現在2キロ体重が落ちました。


毎朝朝食前にヨガをして、1日のカロリー摂取を1500キロカロリーに抑えた結果でございます。


とりあえず、1年で10キロ痩せるのを目標に頑張ります。


20キロやせたら、ダイエット本を作って知人にバラまくことが最近の密かな目標です。




外見を磨くとともに、中身も磨かなければと思うのですが、これがなかなか難しい。


正直、太っていても可愛い人はたくさんいます。

でも、私は卑屈な人間なので、『どうせ太っているから』と俯いてしまうんです。


きっと痩せても、何かを言い訳に俯いて生きていく気がします。

それじゃあいけません。



なんで、そんな卑屈かっていうと、自分を好きじゃないし、信頼していないから。

そして頭も良くないから、もう俯くしかないです。


あ、でもこれでも友達はいます。

私の心の壁をわかっている友人もいます。

性格も悪いってわかっていても、一緒にいてくれる友達がいます。


それだけが救いだな。

そう思うのに、そんな感謝の気持ちも大抵は忘れて過ごしています。

・・・忘れられるくらいには卑屈にならずに生きてるってことか。


私って、もしかしたら普通なんでしょうか。


じゃあなんでどうしようもなく卑屈になったりするのか。


15年来の友人は頭も顔も良くて、久しぶりに会うたびに緊張します。

(久しぶりったって、1~2カ月ぶりとかですが。)

普通の会話が出来るようになるまで時間と酒を要します。


初対面の人は兎角緊張して、会話でリアクション取ることすらままなりません。


とくに誰かが何かを期待しているわけでもないのになぁ。


なんなら性格悪いってのを全面に出すキャラになろうかな。

自分より頭悪い人も、自分より性格悪い人も、自分の主観で生きてるし。


でもダブルでどっちも悪い人なんてそうそういないからなぁ。


そうなろうか。今月はそういう人になろうか。

頭も性格も悪い人。


今月はそれを課題に頑張ろう。


でも、仕事は頭悪いながらも精いっぱいやろう。

おばあちゃんは余命を宣告された通り、

1か月で亡くなりました。


私は1度も泣いていません。

なんでだろう。まだわかりません。


おばあちゃんになんでもっと優しくしなかったのか、後悔ばかりです。

もっと色んなものを食べさせたり、色んなところへ連れて行きたかった。


入院してからは、好きなものも食べられない状態で、

シェイクや氷が冷たくて美味しいみたいでした。


いろんなことも聞きたかったけれど、会話をするにも体力がいるので、

それも出来なかった。


祖母の死に向かい合うには、時間が足りなかったように思います。


・・・でも、死に向かい合う時間があるのは、それはそれで辛いのかもしれません。

時間がある人は死と向かい合うよりも死と闘って(病気と闘って)ますよね。

当人も、回りにいる人も疲れてしまうでしょうね。



誰もが死に向かっていることは分かりきったことなのに、それを頭に置いて生きるのは

とても難しいです。



私は面倒臭いことや無駄なことが嫌いです。

つい回り道せずに、最短距離で目的地まで向かうことにこだわってしまいます。

早く結果が欲しいから、過程を楽しむことが下手です。


でも、結果が『死』ならば、最短距離で向かうことに何の意味があるんでしょう?

過程こそが生きることで、その過程によって結果は何色にも変わる気がします。


そういう意味で、祖母は過程を楽しんでいたと思います。

歌を詠み、四季の草花を楽しみ、見たことない物事に対しては嬉しそうに辞典を開いていました。

今年のおせち料理も作っていました。

祖母が何よりも大切にしていた家族全員で元旦の食卓を囲むこともできました。



生きることがすべて過程でしかないと、そう思ったら

日々がとても愛おしくなってきました。


祖母が見せてくれた色を、今度は私の過程に流し込もう。


そうやって、みんな色を作ってきたんだな。