このブログを始めてから1年が経ちました。
始めた当初の断捨離熱はありませんが
日常をどうやって整えていくか?
自分自身として「整える」とはなんだろうか?
という問いを自分に出すと
「捨てること」が少なからず含まれてくるなぁと感じます。
捨てること以外にも
日常や自分自身を整える方法は色々あると思うので
あくまでも「断捨離」や「捨て活」は方法の1つとして捉えています。
上澄みを取っている時は勢いでできる
やり方や方法、順序は脇に置かせてもらいますが
私自身が断捨離をはじめたとき
最初のころは勢いで捨てられることが多い時期だったと感じています。
逆に言うと
パッと判断ができるものがそれだけ多かったということでもあります。
私はそれらを“上澄み”と位置付けたのですが
その時期もそれほど長くは続かなくて
だんだんとペースが緩やかになり
停滞しているような感覚を感じていくようになりました。
でもそれは停滞ではなく
ようやくスタート地点に辿り着いただけなのかなと思うところがあります。
パッと判断して処分することができるものより
処分に悩んだり迷ったり
決断するのに少々時間を要するものが増えていく
数はそれほど多くないけど
そういったものが残っていくようになったとき
それらが“本当に手放したいもの”なんだろうなと感じるようになりました。
そこに張り付いているものは
罪悪感だったり
損得感情だったり
処分した後の不安だったり
人それぞれ、物それぞれだと思うのですが
目で見える範囲から削ぎ落としていくことで
今まで当たり前だったことに違和感を感じたり
今まで見ないようにしまい込んできたものが浮き彫りになったり。
バリケードとなっていた上澄みがなくなってしまえば
そこを見ざるを得ない状況になっていくのだと感じました。
ただ、そんな状況になっても
今はやりたくない、まだ向き合いたくない…というのはあるんですよね。
それはそれでいいのかなと思います。
気づいてしまったものは、どこかで必ずご対面することになるので(笑)
上澄みを取らないと気づけないものもある
上澄みを一旦ゴソっと取り除いてしまうと
残るものは
自分が残したい、必要だ、これがいいという選択の上で残したものか
なにかしら気にかかるがまだ手放せないものか
どちらかしか残らなくなるので
今まで日常に染まっていたものにも気づきやすくなるように感じます。
自分の選択の上で残しているものの中にも
迷い、ためらい
しっくりこない感覚
納得感が薄い
気がやや重い、なにかがひっかかる
そんな感覚があるときは後々断捨離の対象になるのですが
先日、立て鏡を新しいものに入れ替えた時がまさにそれだったなぁと思います。
日常で当たり前に稼働させ
生活に馴染んでいたからこそ気づけなかったのもありますが
物が減ってはじめてそこに向き合えたのもあるなとも感じました。
▼立て鏡の話
タイミングや流れもあるかもしれませんが
一度気づいてしまった違和感には必ず向き合うときがくる。
立ち鏡に関してはそれが“今”だったのかもしれません。
断捨離は手放しという印象が強く
私自身も手放しにベクトルは向いていますが
断捨離のプロセスは
自分の思いに応えることであり
自分の思いに向き合うことなんだろうなと感じます。
