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東京アマノジャク倶楽部

イベントをやります。

これは唯一の自主企画なので色々自由もきき、

出て欲しい方に掛け合ったりして実現します。

手探りかつ手作り感があるので、

個人的に一番続けたいイベントです。

前回映画の監督として記事に書いた神山てんがいさん、

僕の友達のヒロシくん(その日のヒロシとして出演)

共同主催、企画、発案のユージさん(バンド「TAUTOU」として活動)

映画の告知などもありつつ、

テーマ曲「跨線橋」なども演奏します。

よろしければ遊びに来てください。

(興味を持ってこのページから曲を探して下さった方もいたようです。

まだ録音ができていないので少しお待ちいただければ幸いです。

遠くないうちに聞ける状態にします。)

LiveSpace 早稲田RiNen

〒162-0042 東京都新宿区早稲田町74

早稲田オアシスビルB1F

東西線早稲田駅1番出口 徒歩30秒

高田馬場から「東西線」で1つ目。

早稲田駅・神楽坂側の「1番出口」を出て
神楽坂方面に向かい「徒歩30秒」。

早稲田通り沿い。ローソンの地下B1。

 

映画「橋と眠る」 Eternal sleep with the bridge

5ヶ月ほど前、

再開のお知らせなどという思わせぶりな内容の記事を投稿してから

僕はまた書けなくなった。

興味、関心、気力がなくなり、

人には元気だと言いながら這うような日々を過ごしていた。

結構な鬱状態になっていたのだと思う。

今日突然、書ける気がした。

このタイミングで書かなくてはと思った。

 

そんな状態ではあったけれど、

とても嬉しく、ありがたいことがあった。

自分の音楽が映画のテーマソングとして使われることになったのだ。

お話をいただいたのは春だった。

その時点では映画が実現するかどうかはまだ分からず、

それでも少し伺ったその計画は僕にとって、とても魅力的なものに思えた。

 

三鷹跨線人道橋。

東京都三鷹市に実在する古い大きな橋。

通称跨線橋。

文字通り線路を跨ぐように架かっている。

作家、太宰治先生ゆかりの地として有名な場所らしい。

(僕は本を読むのが苦手だけれど、

ほとんど唯一、太宰先生の作品は読んでいた。)

その橋が老朽化の為、近く撤去されるという。

その前に橋を舞台にした小さなドラマを映像作品として残したい、

という話だった。

自分がそんな素晴らしいことに関われるのを嬉しく思い、

興奮したまま二つ返事をして、すぐに曲を作った。

声をかけて下さったのは神山てんがいさん。

人に拾われた経験がない僕を拾った神は、

奇しくも神山さんという人だった。

そこから話が進み、趣旨に賛同した役者さん、撮影監督など

多くの人が集い、今熱意を持ってこの映画に向かっている。

現在鋭意制作中。

僕もここで告知くらいはしたい。

この映画の為に何か役に立つことがしたい。

 

◼︎映画「橋と眠る」Eternal sleep with the bridge

 

・脚本・監督 神山てんがい

・撮影監督  麿

・撮影技術  宮原恒信

 

・キャスト  神山てんがい、うなじ、大野ひとみ、麻莉、早樋光正、

       朝霞ルイ、木村重成、渦ヨーコ、ロイ、ネグチマサアキ、

       田村鉄火、大月龍治、丸山太郎、綿貫友哉、浅見直輝、

       豆太郎、フルハシユミコ 他・・・

 

・テーマ曲 「跨線橋」awakewalk

 

完成するのが待ち遠しい。

この先に喜びがある。

それを忘れては、いけない。

 

 

 

 

 

 

 

五感

この記事は本当は去年書くつもりでいた。

〜感シリーズを4つ書こうと思っていた。

寒くなり始めた10月、僕はパタリと取りかかれなくなり、

人の記事もほとんど読めなくなった。

だいたい例年通りだけれど、今年は期間が長かった。

 

五感。ここにある程度確信を持って書けること。

ADHDやASDなどのいわゆる発達障がいを抱えた人は

五感が通常と違っていることが多々あるとよく聞く。

実は僕も数年前まで知らなかった。

けれど知るにつれて、自分を振り返ると間違いなくそれはあった。

僕を含めた当事者が気づかない理由も何となくはわかる。

生まれてから死ぬまで、

僕たちは一瞬たりとも他人の五感では生きられない。

比較しようがないので自分が違うことに気づけない、

ということだと思う。

僕は昔から時々耳鳴りがしていたけれど、

それが他の人には聞こえないのと同じように、

外からも全くわからず、

誰一人として違いを指摘できないことも

気づきを得られない大きな要因だと思う。

 

書くまでもないことだけれど改めて。

触覚、嗅覚、味覚、聴覚、視覚。

もちろん人によってそれぞれ違うにしても、

ざっくり書いてしまうとこれらそれぞれに、

過敏や鈍麻といったものが有りうるらしかった。

五感というタイトルに沿って律儀に五感を書き出してみたけれど、

知る限りではさらに

前庭覚、固有覚、視覚認知など耳慣れないものが

プラスされるようだ。

 

僕がシンプルに思ったのは、

「基本的な部分がそれだけ違えば、世界の認識が人と違って当然」

ということだった。

そう書いて初めて、いつも自分が周囲に対して感じていた

「どうしても跨げない溝」と、

そこに架ける橋の理想の姿が見えた気がした。

 

この差異の認識が僕と他者の間にあったなら、

と今でもどうしても思ってしまう。

僕のような人や、或いはまた別の理由を持つ人たちが、

この割り箸のように細い橋を使うことができたらな、と思う。

「人と自分は違う」

こういうのは平和とは呼べないのだろうか?