僕の話をしよう。
歳は二十一。大人だけれど青二才。性格はいたって温厚。ややネガティブ。
周りの評価は“いたって真面目”。
元引きこもりで、現ニート。親のすねをかじる成人済みの子供の一人。
学校が嫌い。「普通」を矯正されるから。かっこいい風に言っているけれど、要は自分の考えを曲げられたくないだけ。
やる気はない。出そうと思うけれど出てこない。前の晩は「いける。できる」と思ってた外出が当日の朝になると「やっぱダメ。どうしても外に出たくない」と変化する。
仕事はできる気がしない。続かない。やる気はある。けれど、半年も持たないから、病欠が増えるからと何かと理由をつけて何もしない。
ダメ人間だと自覚したのは最近。その時は一晩泣いて二日寝込んだ。
精神科に行った。
適応障害だった。
信じられなかったが、認めることにした。
受け入れて、それでも社会復帰を、何らかの形で生計を、と思った矢先に病名が取れた。
ただ病気の所見があるだけ。精神病の病名はなくなってしまった。
「僕は病気だから」という建前がなくなった。
免罪符を失くした僕は、外に出るのがさらにおっくうになった。
本は好き。
文章を書くのも嫌いじゃない。
本好きの例にもれず、僕も小説を書いた。
カウンセラーと両親に褒められた。
調子に乗って次作を書こうとした。
書けなかった。
僕は小説を書くことがさしてうまいわけでもないと知った。
それでもたまにストーリーを考えては、メモ用紙に書き出している。
次回作はいまだにできていない。
特技はない。
スポーツもできないし、頭もよくない。勉強は少しできたが、小学校の秀才は、中学では凡人だった。ほかに秀でた趣味もない。
受験が怖かった。推薦入試で高校を受けた。
生活態度はまじめだったから、何ら問題はなく通過した。
結局、なじめなくて転校した。
予備校に行って大学に行こうとした。
しかし、受験間近になると体調を崩した。
大学には行けなかった。いや、行かなかった。受験すらしなかった。
悲しくてさめざめと泣く半面、やっぱりかと思う自分もいた。
日記が書けなかった。
日記を毎日つけたらかっこいいぞ、と何度もチャレンジするが、ろくに続いたためしがない。
それにダヴィンチや、芥川龍之介とか、そんな人の手記が残っていると聞くと、自分の本音は書けなかった。きれいな、美化した自分しか記述できなかった。
僕。僕と言っているが、僕は女性だ。
別に男性になりたいから僕と言っているわけではない。
自分の一人称に「私」はつまらないし、「俺」っていうのは好きじゃない。名前で呼ぶのはいいと思わない。ただ単に自分を「僕」と呼ぶと落ち着くし、どこかしっくりくるから自分の中では自分を「僕」と呼んでいる。
服だって、中世の町娘か、もしくは男性的なスラっとしたかっこいい服がきたい。
でも似合わないし、場違いだから、周りに合わせて無難な服を選んでいる。
一人称だってそうだ。僕のいつもの一人称は「私」だ。
周りに合わせて、違和感を感じながら「普通」を演じているといつの間にか息ができなくなっている。
大丈夫だ、と思った二時間後に吐きそうなほど苦しくなることはしょっちゅうある。
私は自分の痛覚に人より鈍感なのかもしれない。もしくは、死んでいるのかも。
誰もいない、山奥の図書館でひっそりと一生を終えたかった。
なら死ねばいい。そう思う。正確にはそう思っていた。
今は死ぬ気はない。あまり、死ぬ気はない、現段階では、と言った方が正確ではある。
痛いのはいやだ。また、人に迷惑をかけるのもご法度だと思う。
自分一人で静かに、誰にも迷惑かけず、気が付いたらいないな、といった具合に死ねたらどんなにいいかと思う。
しかし、そんな自殺方法は思いつかなかった。だから私はまだ生きている。
これから先、痛みや苦しみを感じないと確約された死に方があっても私は戸惑うだろう。
だって、死後の世界が楽しい幸せなものだと誰が決めた?
釈迦も仏も神ですら人間の想像上だ。天国も地獄も証拠をそろえてあるといわれているわけではない。
誰か、確認したのだろうか? 冥府帰りの旅人がいたらぜひとも話を聞きたいものだ。
こんなにつらく、悲しくとも、きっと私はこれより「最悪」があると知っている。
だから絶望ができないのだと、気が付いてまた涙が出てきた。
なぜかは知らないが、こんな私を好いてくれている人が数人いる。愛してくれている人が一人いる。
その恋人は、いたって「普通」の人だ。友人は多く、社交的で、勉強もでき、活発な人。
今は大学生だ。
騙されていると、何度も思った。理由を考え、ひねり出し、「この人は私を好きではない」という論を筋道立ててきた。付き合いが長くなるにつれ、その理論は組み立てにくくなった。また、「騙されていてもいい」と思えるほどその人を僕も好きになっていった。
今度は「「こんなダメな自分が人を好きになるなんて」と何度も頭を悩ませた。「こんないい人の隣に、こんなクズが立っているなんて」とも。
恋人はとてもいい人だ。私が落ち込めば救い上げてくれて、暗闇に迷い込めば一緒に光を探してくれる。
だから、この人に見合う、素敵な人になろうと何度も奮起した。
「せめて、世の中で認められるような人に」「せめて彼が胸を張って友人に紹介できるような恋人に」
クズはどこまで行ってもクズだ。いまだに何も改善してはいない。
人はどこまでも堕落する。
落ちるところまで落ちて、それから頑張ろう。そんなことは出来っこないのだ。
分かったとて、元の位置は遠すぎる。
かすみを食べて生きていけたらいいのに、生涯お金に困らず、消費する一方でよければいいのに。
そんなことを願っている時点で、私に未来はないのかもしれない。
追記。 この文を書いている間にも「僕」と「私」が無意識で混じっている。つまり、この文字列でも、無意識のうちに自分を美化しようとしているのだ。
数年後にこの文を読み返したら、「僕」と「私」の使いどころに何か解決の糸口があるかもしれない。このままにしておこう。