2012年8月25日の2012年度の「東京大会」の中で開催された定期総会は、20期運営委員会(筆者が事務局長)が担当した最初の総会であった。

 

この議事冒頭に波乱があった。

三輪脇(仮名)運営副委員長(全心共(仮称)会長)が、事前に筆者らに何の前触れもなく、予定の議案審議の前に、唐突に質問を始めた。

 

その後には、招聘スピーカーを招いたプログラムを控えての時間に余裕のない審議であり、三輪脇は、少なくともこの「大会」を主催する側であった。

 

それにも関わらず、三輪脇の質問に誘発された議論により、議事が冗長に長引いた。

この結果、総会で議決すべき議案の殆どが先送りとなり、2014年2月の臨時総会を開かねばならなくなった。

 

(しかし、その臨時総会でもまた、一部の運営委員3名の指導教官であり、そのうちの2名が勤務する社会福祉法人の経営者でもある人物が、議場フロアから恫喝にも等しい不規則発言によって議事を妨害し、選挙管理委員会や第三者委員会の設置や多選防止を期した会則改訂議案の審議が妨害されたのであるが...。)

 

三輪脇の質問の内容は、充川に向けられたものであり、総会の議案のいずれにも全く無関係なものであった。

 

それは、他学会である比較民俗学会の会員が記した機関誌記事への批判だったのだ。

 

充川が執筆した民俗学の論文(内容は、この学会の運営事案その他には一切関わりのない、純粋な学術論文)が掲載された最終頁の同じ頁上(奥付的なコラム)に、この「(仮称)社会との共生学会」と、協力して合同で中国大連市での学会を行うという比較民俗学会関係者が記した小文があった。

 

これは、比較民俗学会関係者があくまでも自主的な観点と判断で記した文章である。

 

三輪脇は、「その記載の中に、『共催』という語があった。『協賛』の間違いではないのか、同じ頁に充川の論文が載っているのだから、充川が気づいて、記述を変えさせるべきであったのに、なぜそうしなかったのか?」と、充川を追及し始めた。

 

本来、もし三輪脇がそのようなことは気づいたなら、気づいた時点で、運営委員会に報告して、学会としてその他学会に問い合わたり、記載変更を求めるべきだ。

 

ちなみに、その学会誌は、数十人規模で、機関誌発行部数(会員配布数)も少なく毎号20頁前後の小冊子であり、ネット上にも公開していない。

 

少なくとも他学会誌の中の誤植の問題は、短時間で手際よく遂行せねばならないこの学会の総会の中でぜひとも追及されるべき事案ではない。

 

これは、議事妨害に等しいものではないか。

いわゆる、「難くせをつける」という類い(まさに「総会屋」!?)に他ならない。

しかも、それを、運営委員会の副運営委員長が率先して行った。

 

そもそも、これには前段があった。

大会を大連市で行うと20期酒木運営委員長の主導で決定していたのを覆し、この年度に2つの大会を行うことへと、強引に導いたのは、同じ全心共副会長の淵下(仮名)であったのだ。

 

この議事妨害に抗弁した充川が、これに続く議場で、いま本稿で問題としている、学会認定資格に関する弁論を行っていた時に、遅れて参加した女性2名のうち、一人が、その後、抗議文を淵下を通して運営委員会に提出した。

 

その文に曰く、「議場に入ると、着物を着た男性が怒鳴っていた、またか、と思った」と忌避感が、批判的に述べられていた。

しかし、その「またか」と言いうる根拠は示されていないので、おそらくは、彼女に強い影響力を持つ人物からの伝聞であることは想像に難くない。

この感想文を文字にするように示唆したのも、当の影響力を及ぼし人物であろう。

 

その女性は、その1年後の8.10選挙にて、21期運営委員の第二次選挙で、当日立候補して、現在も運営委員を務めている。

彼女の勤務先は、淵下が創立に関わり、現在理事を努めるNPO法人である。

 

このように名実ともに淵下の部下に相当する彼女は、浅山(仮名)の「精一杯の努力」によって、精従懇担当を外されたことになっている淵下(しかし、同年に淵下は、この団体の監事に昇格しているのだ!)の後任担当者となった。

 

このように、様々に周到な根回しを駆使しての、充川への「攻撃」が窺われた。

この時も、三輪脇の陽動的な議事介入により、予定議案の審議が中断に追い込まれたが、これも、充川が長く弁舌をふるった性であると、責任転嫁されている。

 

(この構造が、この4年後の9.4総会においても、再現された。)

 

それらの淵下の水面下の根回しと三輪脇の陽動作戦の結果、次年度予算案は、この「学会認定資格検討委員会」費目を除いての暫定承認となってしまった。

 

その後、2013年2月16日の臨時総会での酒木運営委員長による、この費目の重要性の説得を踏まえて、ようやく「2012年度予算案」が年度末直前に成立が叶った。

 

したがって、この新費目の学会会計からの支出は、年度末ぎりぎりまで見送られるという結果となった。そして、この事態が、その後に大きな問題として、ことさらに酒木運営委員長体制の足を引っ張る、淵下を核とする運営委員たちにとっての好餌を与えることとなった。

それが本稿で、これから語らねばならない顛末である。

 

これは同時に、淵下、三輪脇ら全心共(仮称)が、敵対する「臨床心理士」国家資格推進派にも施していた、組織操作の手法が、具体的に露わになっており、その意味での、絶好の研究対象事例でもあるのだが...。

 

(しかし、現在、筆者は淵下らのいやがらせ訴訟によって、研究の時間を剥奪されている。これは、研究者にとって損害賠償に相当すると筆者は考えるのだが、いかがなものなのか?)

 

さて、淵下、三輪脇らが、このような策謀を用いてまで、潰しにかかった議案とは、どのようなものだったのか。

 

それは、「学会認定資格検討委員会費目」の設定である。

 

この「学会認定資格検討委員会」設置議案とは、国家資格化実現の期待が高まっていたこの時機に臨み、本学会が「誰でも入れる学会」であり、多領域の治療実践者にも広く門戸を開いて来たという独自性を生かして、また学術の水準が衰退している現状からの起死回生を目指す方策を目指したものであった。

 

すなわち、従来の心理職に限らず実践的に優れた身心治療者を擁し応援する学会となろうではないかとの提案である。

 

淵下、三輪脇ら、医療心理師推進に特化した団体の正副会長を含む多年歴任の運営委員は、表向きは別として、実質的にこの提案を強固に拒んだのである。

 

ここでも精神医療のこばんざめの面目として、心理職の地位確保を一元的に求める力が働いていた。

 

なぜなら、この提案においての、学会認定資格の対象者は、この議案の提案者である萩原氏(仮名)自身の同業である「代替医療」の領域のヒーラーやセラピストを含んでいたからだ。

 

そして、むしろその人たちの臨床的な心身治療の技量の高さを、並の心理専門職よりも優れたものとして認めようとの趣旨であったからだ。

 

これを、萩原氏は、運営委員会のメーリングリスト会議で、正式な手続きで、かつ充分な議論の余裕を踏まえて提案し、その時点では、議案(案)から外せ等との異論もなかった。

このように議事提出の手続きを一切逸脱することなく、総会に正式な予算案として提出された議案であったのだ。

 

しかし、総会の場で、杉野麗子(仮名)他の運営委員から、メーリングリストを自己理由で確認していなかったこと等々を理由に、堂々と、この予算案の策定には、「自分は責任が無い」趣旨の発言まで出てくる始末であった。

そして、結果的に、運営委員会内の内紛(総会出席者の半数以上は運営委員ではあったが)が総会の場に現出することになった。

 

この「学会認定資格」費目に関わる議事紛糾の中で、萩原を庇って一人、三輪脇や杉野の表だった批判に立ち向かったのは充川であった。

 

この時の充川の発言の最中に、総会に遅れて入って来て、「不快感を覚えた」と述べ立てているのが、淵下の配下の例の女性だった。

 

つまり彼女は、この議論に至る複雑なコンテキストを知らないままに、淵下の事後の誘導的説明に乗せられて、自分で考えたと思いこんだ意見を提出したのであろう。

 

陰の人形使いの淵下は、例によって例のごとく、要となりそうなポイントで、自らを印象づけるセリフを吐くことを期して、陰でそれらの議論を煽りつつ、成り行きを監視している。

 

2015年9月4日のSLAPP提訴の前提となった総会においても、これと同様の淵下の冷徹な態度が踏襲されていた。

 

この9.4総会においても、表立って議事進行を妨げたのは、やはり三輪脇である。

 

ここに、全心共の正副会長の地位が、実質上は逆であることが垣間見えてくる。

 

このように、20期の充川への露骨な攻撃(組織的な「いじめ」と言ってよいだろう)が、どのような力に動かされてのものと考えると、諸々の不可解も解けていくのではないか。

 

充川は河合隼雄の直弟子であるにも関わらず、心理職の国家資格化に異義を申立てる発言を、臨床心理士国家資格推進派の側の総会で行ったことで、知られていた。

 

その充川が応援するのは、民俗それも宗教民俗的な癒しの領域を、心理臨床が取り入れるという方向性であった。

 

淵下(と三輪脇)が率いる、現行の精神医療の中核である、日本精神科病院連合体によって、「全面的に支援」されている人々にとっては、医療利権から外れ、まして、代替医療という日本学術会議や医師会に忌避される領域と繋がりを持つことは禁忌の極みではないか。

 

このような危機感が、充川の言動を危険視し、充川が、この「(仮称)弱者との共生」学会の方向性を、現行の「生物学的」精神科医療を核としたものから、外そしていこうとする方向性を、全力で妨げようとしたことが、よく理解できる。

 

つまり、充川を「いじめ」た人々は、単に「いままで守ってきたとおり、やっていきたい」とか、「あたらしい試みは、うさんくさくて、嫌だ」との「感情論」から、20期の酒木運営委員長とその盟友の充川の方向性に、反発したからではないのだ。

 

充川を排除したかった、真の理由は、以下であると筆者は考える。

 

すなわち、1991年に篠原ら日本社会臨床学会を後に設立する人々を策謀によって、追い出した淵下(じつは、淵下は、篠原の一番の愛弟子であったのだが...)らは、医療領域での心理職の生活利権確立のための、公の活動主体として、この「(仮称)弱者との共生学会」を利用してきた。

 

このように政治運動体が本態となってしまっているので、当然、この学会の学術的な水準は下がる。

 

それを危惧した金口(仮名)が、学会を学術的に立て直して欲しいと、充川を再びこの学会に呼び入れた。

 

そこで充川は、長年の研究を踏まえて、日本の産土(風土)に合致した、心身の癒しを実践する方法論を研究する学会として、立て直しを図り、萩原をはじめ筆者らに声をかけて会員とした。

論理的な叙述と言論能力において充川は、淵下らを凌駕していた。

 

充川のこの(古い言葉で言えば)反精神医学的、すなわち、精神科医療一辺倒を拒絶するオルタナティブな方向性は、淵下にとっては、自らの歴年にわたる野望を妨げる、もっとも危険なイデオロギーと映ったのであろう。

 

このような裏側での、(仮称)全心共主導者の深慮策謀が、この「学会認定資格検討委員会」費目設置の検討そのものが妨げられた背景にあるのだ。

 

(つづく)

 

学会認定資格検討委員会費目を含む予算案は、以下の議事録に示す通り、可決した。しかし、その後その活動は、提案者の退会、酒木の事実上の退任、充川の選挙落選により、次期に引き継がれることなく、次年度からは費目から抹消された。

http://nichirinshin-o.sakura.ne.jp/wordpress/wp-content/uploads/2013/09/2fad303dcaf4de68d31291e4c2691e84.pdf

なお、お気づきであろうか、ここには、その後廃案となった8議案の内容が記されている。その議案の趣旨は、来る9月29日の総会での会則改訂議案として、22期の会長・副会長と監事が合議して提出したと称するこれらの議案は、4年前に充川と筆者らが提示した改革の方向性を引き写したものである。かれらは、常に充川ら酒木らが、かれら自身の妨害に屈せずやりとげた事業や改革の成果を自分たちの手柄とし、一方一切の負の結果を充川と筆者の罪業として貶めて批判し排除してきた...。