最終的に公認心理師(医療心理師)の国家資格化を中心となって果たすことに至った某運動体(学術団体を称し日本学術会議に登録されてはいるものの...)では、かつて、

「するーされる」問題がしきりに議論されてきました。

 

まずは、「する」側と「される」側という二者の非対称性(一方が「専門家」であり、他方が相手側の「専門性」に基づくなんらかの利害を一方的に及ぼされること)は、<悪いこと>である、このような権力関係、つまり上下関係は、<解消されねばならない>。.....というのが前提(予めの見方)となっています。

 

ここで言われている「される」側というのは、常に「社会的弱者」、たとえば病者、障がい者、子ども、女性、高齢者などです。そして、

「わたしたち専門家」イコール「する」側は、その人たちとどうやったら、「共に生き」「共に歩む」ことが可能となるのかという、大きな問題を立ち上げるのです。

 

..........わりとよくありそうなこういった問題提起に、つい、一種のうさんくささみたいなものを感じてしまうのは、ひねくれ者のにゃんだけなのでしょうか........?

 

すくなくともそこでは、「専門家(する側)」と「社会的弱者(される側)」とが、別のもの・別の立場であることが、絶対にゆらがない前提となっています。

 

たとえば、ひとりの医者が心身の調子を崩してひとりの患者となっても、ただ社会的な役割が入れ替わるだけで、「する」と「される」というかたち(構造)がゆらぐことはあり得ません。

 

「する」と「される」が、分断されている(別のものであると疑わない)ところに、はじめて、「共に」という言葉が出て来るように思うのです。

 

「共に生きる」「共に歩む」って、スローガン・標語としては、きれいで立派なんだけど、隠れた(精神分析では「否認(denial)」と云ったりします...)上から目線がちらちらして、落ち着かない気分になります。

 

そんな「専門家」を自負している人たちと「共に生きる」ことや、「共に歩む」ことを、「社会的弱者」にされた人たちのみんなが、ほんとうに望んでいるのかなあ.....