公認心理師という国家資格の名称には、「臨床」という語が入っていません。

 

それは、医療保健福祉利権を占有してきたお金と政治を動かす力を持った人々が、「臨床」は医療行為を示す用語であると主張したからです。

 

「臨床」とはBeing(病める人の傍らに在る)ことと言われています。

http://ameblo.jp/slapp-nyan/entry-12282700298.html

 

 臨床...Being という在り方は、癒しと治りの場に欠かすことのできない、いえ、癒しと治りの<場>そのものであると言えるかもしれません。

 

この後の方の意味を言い直すなら、誰か...心理職とかが居る(Being)というより、

ただ、<場 field>が在る(Being)のです。

 

すべての医療的な行為(Doing)はこの<場に在って>こそ、真に立ち行くのではないでしょうか。

 

このことに、つい先日、僧侶で臨床心理士でもある方とのメールでのやり取りの中で気づかせていただきました。その方は、BeingとDoingとはそもそも「位相が異なる」つまり対置できるものとして、同列には語れないと指摘くださったのです。

 

医療現場でも、教育現場でも、福祉の現場でも、たぶんそれ以外の現場でも、心理職は、いかによりよくDoingできるか。そしてそれが、たんなるパフォーマンスだけではなく、エビデンス(客観的つまり数字的・物的な証拠)できちんと示せるのか、を常に問われ、いつも求められてきました。

 

けれども.......

 

かつて医療は、宗教施設・宗教組織・宗教的な<場>の中で営まれていたのです。

だからこその、臨床〜死の床に寄り添うこと〜だったのです。

 

宗教的な場には「奇蹟(一度きりの出来事)」は起っても、元々、科学のエビデンス

(条件が整えばいつも再現できる出来事)にはなじまない世界です。

 

心理職は、医療現場で唯一、国家資格を持たないスタッフである。

だから、心理がやることは、診療報酬にはならない(保険点数がつかない)。

つまり経済効率(精神病院の儲けになるかどうか)を考えると、心理なんて要らん、だいたい看護師や精神保健福祉士が替わりにできることばかりだ。

 

この意見は、心理という専門職もまたDoingの職種、つまり医行為の補助者として医師の指示を仰ぐべき者という見方で捉えられる限りは、正しいのです。

 

この考え方に、そうそうとうなづく人は多いと思います。

つまり、これが、いまの日本の社会での「通念(思い込み)」なのです。

 

そして、この「通念」が、国家資格という形になったのが、「公認心理師」です。

 

ここから、「臨床」という言葉が、そのたましいとともに、置き去りにされてしまったことを、臨床心理士や心理臨床に携わる人たちをはじめ、多くの人たちが危機感とともに、深く考えてみないといけない、と思います。