ここのところ数ヶ月、ラヂオという場をいただいて展開している「選びかえる」という話は、もしかしたら一方において聞く人を選ぶ話柄ではないかとも思っている。
ただ、頭の知識としてはともかく、私自身がびっくりして、面白がってもいるのだから、しかたがない。
「選び変える」ということは、一見すると巷の「引き寄せの法則」のように、なんでもジプンに都合よく、という話に聞こえる。が、そうではない。結果をかんがえず期待もしない、というところでまず心構えが異なるし、すべてはひとつの世界観でありつつも、ここにはたしかな息づきとして「他者」がいるからだ。
私は初期の人類学者が誤解したような意味で、外界の操作という意味での「呪術」にはなんの関心もないが、ふれるかぎり、「引き寄せ」とはそうしたものではないかと思われた。
日本の知識人というものは他界を喪失している。だからフラットか、もしくは繋がりといっても接続と切断みたいな奥行きのない世界で、「あの世」とか「浄土」もわからなくなっている。そうなると、受容しやすいのは非二元的な「あるがまま」か心理的な象徴解釈の世界だった。特に「あるがまま」は浄土真宗の妙好人とも結びついて、理解しやすかったと思う。善悪の判断なく、起こることを起こるままに受容するそれは、非二元の基礎であるヒンドゥーの持つ一元論的志向を抜いてしまえば、わかりやすい。巷の高僧の説法の類いには、それが溢れている。また心理学化されたスピリチュアリティにおいて、究極の意識として描かれるものの多くも、こういう言いあてである。
この「あるがまま」が現実に対する忍従的態度へと極端に結びつき、仏教の戦争協力へとかつて結びついた理路であったことも見やすい道理だろう。
「選びかえ」はそれに比するとアグレッシブで、ちょうど「引き寄せ」と「あるがまま」の中間にあるように思う。たとえば不満があるときに、ただそれを感じ尽くす(これだと「あるがまま」である)ではなく、具体的に行動に移して、ただ自身の気持ちを表明するためにNoということは、「あるがまま」からすればびっくりの行動でもある。
単に書物でその価値観に触れるだけだというのならば、さほどでもなかっただろう。しかし現にそれを生きている人間に出会うということは、とても大きなゆさぶりで、そのことによって私の価値観も地殻変動をおこしている(というか、もとからかんがえていことの本質がはっきりしてきたともいえる)。「地球が行動の星」だということは、私は疑問なのであるけれど、それは行動という言葉が帰結主義的なイメージや効果=結果と結びつきやすいからだ。"actus"の意味が"to be"であると知人の書き込みにあった。
しかし奇妙なことに、この「選び変え」は他力とも通底していると思われてならない。それはどういうことかというと、タイムパラドックスの実践でもあるからだ。現に身近な他人に言いたいことをきちんというようにしていくと、それが予定されていたかのごとくに場が整うことがある。このさい、未来は導入しない。ここでいうタイムパラドックスとは、阿弥陀が法蔵として実践することである。
今、ちょうど講義で少し長くイエスの宣教にひっかかっていて、心づいたことがある。「時は満ちた。神の国は近づいた」というその宣教の言葉は、アラム語では「近づいた」ではなく「来た」ということになると言われている。つまり過去完了である。そうするとイエスも、当時のローマ帝国の間接支配という制約条件の中ではあるが、タイムパラドックスのひとつの実践者であったとかんがえられる。
長々となにをいいたいかというと、シンプルに「選びかえる」という実践は、面白いよ、ということ。
