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すかいうの自分哲学

自分なりに編み出した哲学

特にオチなどない
意味もないかもしれない
自己満足で書いている



昔に比べ今の恋愛はかなり自由度を得た。
気に入った相手と交際できるし、結婚も自由にできる。
そしてsexも自由になった。

ただ、自由すぎることにより弊害も生じている。

誤解のないよう最初に申し上げておこう。
私はsexが嫌いなわけではない。むしろ性欲は強いほうだと思うし、sexは好きである。

私はただ、倫理、道徳の観点から見たときに、
「何が正しいのか」を見失ってはいけないと思うのだ。









大前提として、
「sexは安易、軽率にするものではないし、責任とリスクをしっかり認識した上で行うべきもの」というのが私の考えである。
これは倫理、道徳の観点からすれば、概ね正論であると言えるだろう。

したがって「sexを絶対にするな」とは言わないが、誰彼かまわず軽い気持ちでとsexをしていいわけではない。
倫理的、道徳的なルールは必ず存在する。

では具体的に、sexの「責任とリスク」とは何か。
私は、二つの大きな要素があると考えている。
ひとつは、妊娠。もう一つは性感染症である。



今日、望まない妊娠がなんと多いことか。
望まない妊娠ゆえ、当然中絶も増えている。
私の知人の女性にも中絶を経験している人が意外と多いことに驚かされる。

この世には、子供を切望しても授からない夫婦がいる。
その一方で、望んでもないのに、不本意で事故的に一つの生命を誕生させてしまう者がいる。
これはどう考えても倫理的にいいことではない。

そして中絶。
欲に負けて軽率なsexをしたにも関わらず、子供ができてしまい、要らないから堕ろす。
この流れを簡単に決断してしまう者がいる。
堕ろすということは、そんなに簡単なことではない。
簡単に堕ろす決断ができる人間は生命を馬鹿にしてるとしか思えない。
もっとも、人にはそれぞれ様々な生活環境や事情があることも十分理解できるので、「絶対に堕ろすな」とは私は言わない。
ただ、もっと真剣に、散々悩んでから決断するべきだ。
安易に決断していいものではない。

もし産むことを選択したとしても、不本意に、事故的に生命を誕生させたことは事実なのだから、その点に関してはやはりきっちり反省はすべきだろう。そして同時に、新しく生まれてくる命を祝福すべきなのだろう。



子供を堕ろさない場合、望まない妊娠の行く先は、できちゃった婚になる場合が多い。しかしこの「できちゃった婚」がまた厄介で、結局は離婚してシングルマザーになるケースが今日では非常に多い。

相手のことをよく知っていて、お互いに信頼もできるカップルでさえ、結婚生活を長く続けていくことが難しいこのご時世。
軽率なsexの場合、お互い相手がどんな人間かも詳しくわからないうちにsexして、子供ができて、やむなく結婚してというケースであれば…そりゃうまくいくわけないだろう。万が一うまくいったら、それはたまたま運が良かったということだ。

実際に今の時代、シングルマザーは本当に多い。
そしてシングルマザーの貧困が社会問題になりつつある。
母親が貧困のストレスから育児放棄や虐待にはしるケースも少なくない。父親がいないことにより愛情不足で愛着障害の子供が増えているという点も無視できない。


また、性感染症は急速に拡大している。
AIDS患者は日本で急増しているし、流産・早産のリスクを高める性器クラミジアは妊婦の2.4%に感染している。(妊婦約41人に1人,2015年)
近年で増加している子宮頸がんの原因であるウイルスも性行為で感染する。
また梅毒感染者も2010年に比べて2015年はその数は3倍である。
わかっている感染者だけでこれだけ多いのだから、実際はもっと多い。
ちなみに、AIDSや梅毒はオーラルセックスやキスなどでも感染する。梅毒は自覚症状がなく、妊娠すると胎児に知的障害などの影響がある。

他にもいろいろあるが、書き出せばきりがない。
これらの病気が蔓延している以上sexはリスクがあると言わざるを得ない。
そして他人に病気をうつさないようにするということもsexの責任である。

ひとまず以上がsexに関する「責任とリスク」である。
sexをする以上、この責任とリスクは必ず伴うといっても過言ではないだろう。



以上の点から、
スポーツ感覚、遊び感覚、セフレ、ワンナイトラブ、風俗などは、倫理・道徳の観点から言えば、良いことではないということは明白だろう。
sexは必ず責任やリスクを伴うので、決して軽い気持ちで行うものではないからだ。

例えば、車の運転もsexと同様、事故はつきものだ。
だからこそ運転するのであれば、何かあったときは、責任を取らなければならない。
そして肝心なのは、「責任が取れない人間は運転をする資格がない」ということだ。
当たり前だが、ナンバープレートのない車は公道を走ってはいけない。
ナンバープレートのない車は事故を起こしても、逃げることができるのだから。


私はsexをする以上、最低限、交際はすべきだと思っている。
この「交際」にあたる部分が車でいうところの「ナンバープレート」だと私は思う。
これらは悪い言い方をすれば、「束縛」である。
しかし、束縛をされているからこそ、自分のパートナーに何かあったときに、きちんと責任をとるという構図ができあがる。

sexをする以上、この束縛が必要だと私は考えている。
それが無ければ、例えば子供ができる、性病に感染する、などの事態になったとき、「別に付き合ってないし関係ない」と言えてしまう。
つまり「責任を取らなきゃいけない場面で言い訳や逃げ道ができてしまう」
ということが問題なのである。

確かに、束縛のないほうが、何の責任も義務も一見ないように思えるので、楽である。
しかしそれはそれはただの個人の都合で、ただ楽をして快楽を得たいだけである。
「交際する」「付き合う」ということは、彼氏彼女の関係になるわけだから、何かあったときには、「この人は恋人です。関係があります。」ということ。
これが何を意味するのかというと、何かあった時には一定の責任が発生するということだ。結婚と違い法的な責任はないかもしれないが、倫理的、道徳的には十分にある。
ようは「けじめ」だ。

たとえ風俗でも結局は同じだ。
よく「風俗はビジネスだから何の問題もない」と言うサラリーマンを見かける。
しかし、ビジネスだろうが何だろうが、sexには責任やリスクが発生する。
妊娠や性感染症など、何かあった時には本来当事者には少なからず責任があるはずだ。法的にではなく、倫理・道徳の観点から言えばそうなる。

だから、たとえ風俗だろうが、ワンナイトラブだろうが、何だろうが、きちんと交際をせずにsexするということは、「責任ある行為をしているにも関わらず、何の責任もとらない」ということになる。
交際しないのは、責任から逃れようとしているだけだ。
私はここに倫理的、道徳的な疑問を感じずにはいられない。







当然、この世の大多数の人は、このように深くは考えていない。
したがって、例えば私がこの点について他人に指摘をすると、「みんなもしてるじゃん?」と言いたくもなるのだろう。

だが実はそう思った時点で、周囲に流されて感覚がすでに麻痺しており、「本来どうあるべきか」「何が正しいのか」という道徳的な正論の部分が見えていないことになる。
だから自らの行いを恥じることもなく、倫理的、道徳的な罪悪感を感じることもない。



ただ、申し上げておくが、私も動物であり、人間である。
したがってsexをしたい気持ちは十分に理解できる。

そして人間は弱い生き物である。
たとえ上記した責任とリスクの意識がしっかりしていようとも、長い人生のなかで、時には欲に負けて不本意な行動をとってしまうこともあるだろう。
時には寂しさを埋めるために軽率な行動をしてしまうこともあるだろう。

ただそこで最も肝心なのは、罪悪感を持てるかどうかではないだろうか。

軽率なsexをしてしまったとしても、それをきちんと軽率だと認識しているかどうかは極めて重要だ。

赤信号をわたってはいけない。
が、やむを得ず、どうしても渡らなければならないなら、わたってしまうこともあるだろう。
その際、平気な顔でわたる人間、自責の念を持ってわたる人間、この両者の差は歴然である。
私は前者のことは信用できないし、あまり関わりたくない。
しかし後者のことは理解できるし、その人の人格もよくわかる。

もし道徳的に、倫理的に、よくないことをしたのなら、自分を責める勇気を持って欲しい。ここで自分を肯定してしまったら、それが正しいことになってしまう。
あくまでも『何が正しいのか』を見失ってはいけない。





このご時世、軽い気持ちでsexをしている人間は多いかもしれないし、それが普通といえばそうなのかもしれないが、大多数の人間がしていることが正しいわけではない。

「sexは安易、軽率にするものではないし、責任やリスクをしっかり認識した上で行うべきもの」
倫理、道徳の観点から言えば、やはりこれが正論である。

もちろん、こんなことを考えている私はこの世間から見れば少数派ではあるだろうし、おそらく「真面目すぎる奴」というカテゴリーに分類されてしまうのだろう。

しかし、sexとは一つの生命ができるかできないかの行為であるし、性感染症も人生を左右する問題でもある。
このような重大な問題を安易に捉えること自体どうかしているし、そこを真面目に考えている人間を「真面目すぎる」と、ネガティヴなニュアンスで分類してしまうのならば、この社会はすでに狂っている。

今一度、ご自身の性生活を振り返ってみてはいかがだろうか?
よくないことをしてしまうのが人間のさがなのかもしれないが、よくないことはあくまでも「よくないこと」という認識をもつ勇気を、どうか多くの方々に持っていただきたい。