7/3スカイツリーと医学所と医学館 JIN-仁-所縁の地巡り★
今日も変化は見られません。
JIN-仁-は終わってしまいましたが、暑いさなかの所縁の地巡り。お隣台東区、とはいっても墨田区からはちょっと離れてしまいますが、秋葉原と浅草橋の間にあった医学所と医学館跡。浅草橋駅を下車して、線路沿いを秋葉原方向へ。清洲橋通りを上野方向へ向かった二番目のブロック、このあたりに医学館があったそうです。
元々は、千代田区側の岩本町辺り、神田佐久間町あたりに、幕府の漢方医学校として、明和2年(1765年)、幕府奥医師だった多紀元孝(安元)により開設した私学躋寿館が起源だそうです。仁にも登場した多紀元琰の先祖に当たる人ですね。寛政3年(1791年)に、幕府直轄の医学館となりますが、文化3年(1806年)、江戸の大火で全焼し、そこからやや北にあるこの地、当時の浅草向柳原、現在の台東区浅草橋に移転されました。
その後は明治新政府により、ここより西北西にあった幕府の種痘所(現三井記念病院)、さらに西北西にあった医学所に、外様大名の藤堂屋敷とあわせて、軍の病院となりました。
明治11年には東京帝国大学第二医院となりますが、本郷の第一医院に吸収され、この地は原っぱになりますが、明治42年に三井財閥により、三井慈善病院(のちの三井記念病院)が建てられたということです。
医学館があったといわれる、台東区浅草橋4-15辺り。神田佐久間町には千代田区が建てた碑があるようですが、この辺りにそれらしきものはないようです。
一方の西洋医学所。蔵前橋通りと昭和通りとの交差点の南東側。そこから南に東にそれぞれ1ブロック入った辺りにあったそうです。現在の住所では台東区台東1-30辺り。医学館からは、徒歩10分程度でしょうか。なるほどここなら、橘邸のあった文京区湯島までも徒歩で15分ぐらいでしょうか。
文久元年(1861年)、神田お玉ヶ池にあった種痘所が移転される際に、幕府直轄の西洋医学所として開設されました。仁がタイムスリップした時代の前年ということになります。
文久3年には医学所となります。
医学館と医学所の間にあった種痘所と藤堂屋敷は、現在三井記念病院になっています。敷地内になにか碑があるのかどうかはわかりませんが。。。
折角の所縁の地巡りでしたが、面影として残るものも、碑も説明板もなにもないでしたが、できれば、何か建立してほしいですね。元々が官営施設・国立施設なので、やはりこういうのは台東区でなく社保賊・厚生省か文部省のすべき仕事。でも建立ごときでまた毒立法人を作られてもたまらないので、三井さんにお願いするのが一番よさそうです。
ちなみに、三井記念病院の北側にある凸版印刷があるところは、JIN-仁-でも登場した浅草市村座が、明治時代になって移転してきたところでもあります。
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