「幸福」について、もっとずっと若かった時から抱いてきた一つのイメージがあります。
自分というものは、通気性がありつつも保水性のある、薄くてほとんど透明な細胞壁のような膜でできていて、その中は液体で満たされています。
その液体は愛であり、そして満たされた状態が「幸福」であると。
しかしこの液体を満たすことができるのは、「自分」だけなのだ、液体を満たすのは自分であるとイメージできることは幸福のカギであり、その行為は「祈り」に近い、と気付いたのはごく数年前です。
液体を満たすのは自分であると気付き始めると、水源は意外とあちこち身近なところに用意されていることに気づくようになります。
ところが先日、遠赤外線風呂に入っていたら、新しいことに気づきました。そのお風呂の水は遠赤外線を放射するパウダーと、乳酸菌・酵母菌が入っていますが、その水質があまりにも気持ちよくて、自分の体と水が一体になっているように感じたのです。
つまり、幸福の水源はあちらこちらに点在している、とこれまではイメージしてきましたが、いやそもそも、膜の外側全体も、内側と同じ水に包まれていたのです。
私の内側と外側は、一体。
隔てるものなど、一重の限りなく透明な膜しかなくて、その境目は常にユラユラと形を変え、時に脱皮もする。
では「自分」はどこにあるのか。
これまでは自分を形作る膜でできた球体の袋が、その実態ある外枠の形が、「自分」であると感じてきた気がします。
しかしお風呂に入りながらふと、その外側の袋は、人の認識の中にあるのみで、実際のところ「自分」とは、その膜でできた私の、その全体の「中心」から、魂のように摑みどころなく、だけど力強く鼓動し、放射する光(そして光は常に影と運命を共にする)なのだろうと思ったのです。