震災の日だからというわけでなく、元々NHKではよく東日本大震災に関連した番組はよく見ていたように思う。


そしてこの1ヶ月は特に多かったかな?


母はなんでそんなに見るの?という人。気持ちが暗くなるからあまり見たくないという。


なので夜中自分の部屋でずっと見ていた。

立ち上がろうとする人たちの姿。まだ引きずってしまっている人の姿。町の様子。


やはり他の民放よりいろんな事を考える事が出来る。NHKってすごいな。


でもたまたま見たテレビ朝日も切り口がよかった。あの時の放送の仕方が間違ったんではないかとの反省や思いから、災害時の放送の在り方に取り組んでいるとの話。


いろんな人があの震災で、思う事があってやろうとした事がある。進化したのではないかと思う。


悲惨な事が起きてしまったけど、人間それだけでは終わらない。進んでいる。学んでいる。歴史ってこういう事なんだろうなあと、たいして力もない私は思う。


元々関東に住んでいても、あの頃の絶望的な気持ちはすごかったように思う。普通に仕事はしていたけれど、店から食べ物がなくなり、電池もない。


私の仕事は必需品ではない物。そんな物を扱う事がもう無理だと思っていた。ガソリン入れるのに長蛇の列。計画停電。そんな中で、いらないもの買ってる場合じゃないよなあと。それも、震災の年に長年いた会社を辞めた理由の一つだった。


関東でも除染が行われた。次の年に契約社員で働いた時に、数年経っても木の葉にもたまるから孫連れて山に行けないと言ってたおじいちゃん先輩。




2011.3.11


毎日は行かないのだけれど、その日は本社に行っていた。店を巡回する日は本社とは全く方向が違い、20~85キロ圏内。会社は55キロくらいかな?車で行っていい訳じゃないんだけど、私は車で行ってましたニヤニヤこれがまあ狂ってる気はしますけどね。どこでも移動は車でした。


家からだと、都内の中心通り越した向こう。どちらかというと神奈川に近いところに本社はあります。


本社は数年前に高層ビルになり、上はマンションと左上はホテルになり。まあ新しいので耐震性はあったのだと思います。


本社にいて地震が起きて、怖かったけどどうする事も出来ないし、そのまま仕事続けてた覚えがあります。ただそばにある休憩所のテレビはつけたまま。


途中から仕事どころではない事態なのだと、近所に住むパートさんはすぐに家に帰りました。


画像で流れたお台場での火事が、窓から見えていました。もう皆仕事どころではない。そして鉄道全滅、帰れない事が決定。


部長指示で食べるものを買いに行く人がいたりして。


そして津波の信じられない画像がテレビで流れ、皆絶句チーンどうなるんだという様子でした。


そんな中私は家や父の会社に電話したりしていました。確かあの時携帯が全然繋がらなくて、まだ会社の電話の方が繋がると皆して電話していたと思います。


何時だったか家に繋がり、母は無事だとわかりました。お風呂の水が飛び出して水浸し、私の部屋は、2mの洋服ラックが倒れて入れないと言われましたガーン


父の会社にも電話繋がって、父に変わってもらい、回りは車が動いてないから、何時になるかわからないけど車で迎えに行くから、会社で待っててと言った。

父はゆっくりでいいから、気をつけてと言ってました。


決心して21時に帰りますと会社を出ました。今思うと朝まで待てばよかったんですけど。


なんと車停めたビルの地下からそのビルを越えうちの会社まで歩いて数メートル・・徒歩1分の距離を1時間かかってましたガーンそして6キロ進んだ時には9時間経ってました。


元々本社に行く日は3時間睡眠で行っていた挙げ句に9時間の渋滞での朝、うとうとしてしまい、前の車にぶつけてしまいました。傷という傷はなかったのですが、タクシーだった為結果かなり修理代取られましたえーん保険ですけど。ゲンナリガーンこの事は、親には話してません。今も。


脇道で警察とのやりとりと保険のやり取りをした後、急に動き出した。そして新橋あたりでは普通に走れた。もう会社を出てから10時間。もうよく我慢出来たと思うのだが、東日本橋あたりのファミマに寄り、トイレを借りた。


そして店内何も食べる物はなかったが、何とか飲み物は買えた。ちょっと生き返った。


そこから父のいる会社までは3キロくらいだったがすんなり着いた。



そして着いたよと会社に電話した。父が出て来た。嬉しそうな顔をしていた爆笑そして会社の人だと思うんだけど、出てきてパンをくれたラブラブ優しいなあ。


それから父から同じ方向の2人も乗せていくと言われた。いいよ。だってまだうちの方向の電車止まってるし。JRは次の日動いていたが、うちの方は動いていなかったのだ。私の会社に電車で行ってたら、まだ私だけ帰れなかっただろうなあと後で思った。


乗せたのは女性2人でした。私より年上の人と20代前半の若い人。8時半くらいに出発しました。


途中の道では皆ぞろぞろ歩いて帰っています。ここからだと私の家まで30キロくらいかな?歩けないなあ。


会社を出た時は首都高が閉鎖したせいで混んでただけなのか、途中から車はあまりいなかった。でもぞろぞろ歩いて帰る人を見た道は混んでた。たぶん迎えに行った人もいたのかもしれない。


うちにあと20キロというところで一人降ろした後、うちと同じ市内だが5キロ離れた方へ送った後11時半に帰宅した。


今日思ったのだが、父はこの時75歳だったんだなあ。


私が来たのが嬉しかったのか、会社の女性2人を送れたのが嬉しかったのかニヤニヤなんとなくこの日の父を思い出すと楽しそうだったのだ。


私は14時間半運転してた事になるチーンすぐに寝たかったが、私の部屋は服のかかった状態のラックが倒れていて寝れない笑い泣き

ラックの長さが部屋の長さなので隙間なく横たわっていた。

疲れ果ててるのに、服を何とかラックから全部はずして、持ち上げてラックを壁にヒモでくくり、倒れないようにしてからまた服をかけ直して。


その途中に何か食べたりもしてたんでしょう。寝られたのは15時くらいでした。


この日福島の東電爆発したんですよね。もう日本はどうなるんだろう?と思ってました。もうお先真っ暗な・・。


そして、もう家から遠いあの会社に行くのが怖い、都内で遊んでいたけど遊ぶのも怖い、両親も若くないから、また何かあった時が心配とか、冒頭の理由もあるし、この年の11月に退社しました。


震災だけが理由ではないですけど、辞めるきっかけにはなったと思います。



この時、父の会社に迎えに行ったのは初めてじゃなかったんです。その前に予行練習していた訳じゃないんですけど、急に思いつきで車で父の会社まで迎えに行った事あったので、あの日は道すんなり口笛

なんでしょうね?これも今思えば不思議です。





いまだに東日本大震災の事はゾッとする。記憶はグレーです。

それまで地震を恐れた事がなかったが、あの後はドキドキするようになってしまった。日本はどうなってしまうのだろうか?という不安も加わっていたと思う。


阪神淡路大震災の時、私は名古屋に出張中だった。一人でホテルの中、かなりの揺れでテレビを付けたら、エライ事になっていた。たぶん関東にいるより感じたと思う。



忘れないように、これからもずっと番組でもやって欲しいし、検証や提案やいろんな事を知りたいと思う。


私自身の何が変わるかわからないけど、忘れちゃいけないと思う。