イラクで拉致された今井君に送る

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批判、中傷の手紙を公開 イラク人質事件の今井さん


 2004年4月のイラク人質事件で一時拘束されたフリーライター今井紀明さん(20)=札幌市=が、当時実家に匿名で届いた批判や中傷の手紙類の公開をインターネットのブログ(日記風サイト)で始めた。
 耳目を集める大きな事件の関係者には、批判、中傷がこうした手紙類や電話で行われることが少なくないとされるが、実際に公開されることはまれ。
 事件を蒸し返すことにもなりかねないが、今井さんは公開について、気持ちに一つの区切りがついたからと説明。「事件については誤認も多く、問い直すきっかけになればと思っている。家に届いた手紙の約9割は匿名。批判するのは構わないが、匿名はフェアではない」と話している。
 ブログのタイトルは「向き合いの中から生まれるもの、それは対話」。
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&PG=STORY&NGID=home&NWID=2006020801002080

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 手紙を公開したDoblogのほうはアクセス集中で陥落した模様。
 一方、ライブドアの「今井紀明の日常と考え事」 というブログは、yahoo砲によるアクセス集中も耐え陥落を免れている。堀江がいなくても大丈夫だ。がんばれライブドア。
 もっとも今井君のブログは現在炎上中である。
 2月9日19時の段階でコメント欄には2000件ほどの書き込みがある。そのほとんどが今井君に対して否定的な意見であることは言うまでもない。
 
 どうやら匿名の批判について問題にしているようなので、ネット右翼的に分析してみたいと思う。


ちなみに本家はこちら

http://sky.ap.teacup.com/deep/




■実名とは抗議先を明確にする意味
 匿名での批判はフェアではないのか?
 この回答は単純にNOである。

 簡単に言えば、匿名か実名かという問題と「批判の内容」とは直接関係がないからだ
 新聞や雑誌の記事だって言ってしまえば「匿名」だ。署名記事というものあるが、匿名の場合が多いだろう。だからと言って「フェアではない」ということはない。内容がそれなりのものであれば「誰が書いたのか」という点はあまり問題にならないのである。
 もちろん書いた人間に「肩書き(権威)」があれば批判の内容に説得力が出てくるという効果はあるだろうが、それが全てではない。


 お分かりだろうか?


 新聞雑誌の場合、最終的には「新聞社」や「出版社」あるいは「編集部」が抗議先となり、何かあれば責任を取ることになる。責任を取るのは基本的に「記事を書いた個人」ではない。
 なぜか?
 これは新聞や雑誌が「不特定多数」に対して情報を発信しているからである。発信した情報内容に間違いがあれば、訂正なり謝罪するのは「メディアの責任」だからである。記事を書いた個人の謝罪ではあまり意味が無い。


 要するに、不特定多数に情報を発信する場合には、抗議先としての「実名」が必要なのであり、抗議先がハッキリしていれば、書いた個人の名前は関係ないということだ。


※インターネット上のブログやサイトは不特定多数に公開されているが、現行法ではプロバイダーが抗議先と認められているので、新聞や雑誌に準じて考えて考えてよい。問題があればプロバイダーに抗議→個人情報の開示という手続きになっているので、ブログやサイトの匿名性は問題にならない。




■個人対個人
 では不特定多数に対してではない、個人間での批判(情報発信)はどうなのだろうか?
 手紙や電話というのは、不特定多数に対して発信されているものではない。あくまでも今井紀明という人物に向けられたものである。


 個人間での情報のやりとりについては、思想信条の問題があるので、お互いの意見が異なるということで個人が謝罪や意見を訂正する必要はない。ここがマスメディアと異なる点である。

 基本的に抗議して是正する権利というものがない、ということを考えれば「匿名か実名か」ということが問題にならないことが理解できるだろうと思う。

 つまり、電話や手紙で一方的に、「俺はお前が嫌いだ!」とか「馬鹿!」とか「ヤラセ誘拐だろうが!」という意見が届いたとしても、それは単に書いた本人の思想の問題である。今井君には手紙を書いた本人に対して、意見を変えるように抗議したり強制する権利は無いということだ。





■反論の機会
 例えば、匿名の手紙に対して「反論する機会」がないと言いたい気持ちはよく分かる。卑怯だと思う気持ちもわからないでもない。
 しかしながら、匿名の手紙というものを読まなければならない義務はない。不特定多数に公開されているものではないのだから、差出人不明の手紙は今井君が捨ててしまってもなんの問題も発生しないのである。
 
 先に説明したように、どんなに「非論理的な意見であっても」それを信じるのは個人の自由であり、憲法で保障された権利なのである。例えば、ある個人が今井君を「宇宙人である」とか「○○の生まれ変わりである」などと「思う自由」は憲法で保障されている。


 その「想い」を今井君に届けたいと思うのもやはり自由であって、手紙や電話という常識的な方法であれば問題になることはない。もちろん「脅迫」に該当するようなものは違法であるし、街角でいきなり暴行を受けるということであれば、これは刑事事件である。警察に相談するべきだろう。


 要するに、「ファンレター」をもらって怒る奴はいないのであるから、「批判の手紙」をもらっても怒るなよと、いうことである。ファンよりアンチが多いということを嘆いても仕方がないのである。 





■有名税
 好むと好まざるとに関わらず、今井君が有名になったことは事実である。下手な言論人や芸能人よりも「顔」が売れているだろう。
 
 有名になるということでメリットも生まれるが、不都合も生まれるのである。お笑いタレントが街角で絡まれたり、不良役をやっている役者が喧嘩を売られたりという話はよく聞く。彼らに非があるわけではないが、世の中そういうものなのである。

 今井君の場合はさらに、「国によって救われた」という要素が加わる。
 無謀な若者が、国によって救われたというストーリーが成立しているわけである。国によって救われたということは、名も無き(ある意味で匿名の)日本国民によって救われたということになるわけだ。





■なぜ批判を浴びるのか?
 簡単に言えば、「感謝の気持ちが見えない」からだろうと思う。
 これは今井君が感謝していていないということではなく、あくまでも第三者からみて、「日本国民に感謝しているように見えない」ということなのである。
 
 今、今井君を批判している者の多くは今井君の無事を願っていたはずである。
 なぜならば、あの時に今井君らが殺害されていれば、日本政府は非常に難しい立場に置かれていただろうからだ。


 あの事件の時、妙にしゃいでいたのは「自衛隊の撤退を望んでいた勢力」であった。
 多くの日本国民は、彼らの行為を「汚い」と感じた。筆者もその一人である。

 今井君が、彼らと協調していると見られるから批判の対象になるのだろうと思う。

 いずれ、ブログに不特定多数からコメントをもらうとか、不特定多数から匿名の手紙をもらうということは、その内容に関わらず「ありがたい」と思ったほうがよいのではないだろうか。それだけ多くの人があの事件の時に「今井君を見守っていたのだ」。そのことに感謝をするべきではないか。



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