エピソード23「パリ・ボヘミアンのジャズ狂い」
エピソード23「パリ・ボヘミアンのジャズ狂い」
最初の結婚の女性(サチ子さん)と、モンマルトルの裏のラマルクのアパートに住んでいること、ジャズの好きな若い仲間たちと知り合いになった。
職がなくて失業保険で食っている、こちらから見れば羨ましいような男たちだったけど、ジャズに対するパッションにかけては、いずれ負けず、劣らずだった。
そのうちに「ジャズのオーガニゼーション【organization】でもやるか」とボクが言い出した冗談ではなくなる雲行きになってきた。ヒョータンから駒が出るというやつである。
折も折り、間章がボクを訪ねてきた。
* 間 章(あいだ あきら、1946年
8月18日
- 1978年
12月12日
)は、音楽評論家
。新潟県生まれ。立教大学
中退。1969年
よりフリー・ジャズ
を中心とした音楽批評活動を展開し、イベントやレコードのプロデュース活動を行った。1978年
12月12日
、脳出血により死去。享年
32。
東京の広告時代の仲間と一緒に「JIM」という組織をつくった、写真家の五海祐治(イツミ ユウジ:写真家)が紹介してくれた。
*JIM:ヒロヤマガタが東京在住時に仲間4人で作った他に、崔洋一(映画監督)、篠豪らがいる。
間章といえば、音楽好きならたいがい知っている方がほとんどだと思うが、一世風靡した名ジャズ評論家である。彼はわれわれの、それこそ無謀な計画に賛成してくれ、いろいろ適切なアドバイスの上、実際に援助もしてくれた。
われわれは、パリの有名なソプラノ・サックスのミュージシャン、スティーヴ・レイシーとか、ギタリストのデレク・パエリィ、パーカッションをやるハンス・ベニングなんかと友人になった。
* スティーヴ・レイシー:モダン・ジャズにおけるソプラノ・サックスの地位を確立したのがシドニー・ベシェ。その彼を敬愛し、さらにあらゆる可能性を模索したのが、スティーヴ・レイシーである。テナー・サックス奏者が持ち替えとして吹くことの多いソプラノを、メインで使用する第一人者だ。そして、そのスタイルは変化し続けてきた。
50年代初頭はデキシーなどのトラディショナル・スタイル、55年にはセシル・テイラーの下でフリーに転向し、ヴィブラートの少ない野太い音色でアヴァンギャルドに吹きまくるスタイルを完成させる。不思議なのは、尖がったプレイながら騒々しい印象がないトコロだ。若手時代に培った伝統的ジャズ演奏によって、ツボの押さえどころを心得ているのであろう。その後、音楽性の似たギル・エヴァンスと共に前衛的ジャズ・アンサンブルを展開し、60年には奇才セロニアス・モンクのバンドに参加。俗に“ユニーク”と表現される、トリッキーな(特にフレーズの終わりが妙チクリン)モンクの音世界に心酔した彼は、現在に至るまで、その意思を継いだ奇異なジャズを創造し続けている。
それに、ビートジェネレーションの影響を受けた詩人ブライアン・ガイシーなども加わり、彼らも全部ひっくるめ、さらに、ニューヨークやシカゴからもミュージシャンを呼ぶ、コンサートの計画が立てられた。第1回の公園は、スティーヴ・レイシーを目玉に、ぱりの国営放送のコンサートホールでやり、超満員の大盛況だった。とはいってもジャズ狂のパリジャンとパリジェンヌはせいぜい4、500人集まった程度で、儲けたぶんはオーガニゼーションをやったわれわれをはじめ、みんなの飲み代で消えてしまった。
しかし、コジキとオーガニゼーション、つまり呼び屋は三日やったらやめられない、のである。建築家は失業保険のお金を、翻訳化は親の仕送りを、ボクはシャカリキに絵を描きあげるたびに、ほとんどの画料をつぎ込んでは、その後もアムステルダムのミュージシャンとか、日本のミュージシャンとか、あるいは、その2国のミュージシャンの合同公園とかの現実に、オーガナイザーとして走り回った。結局ジャズに狂ってしまい、最初の結婚は失敗に終わることになる。
1996「ムーンライトセレナーデ」
