次の目的地、当時世界で二番目に寒いといわれていた
人口5000の街、チャーチル飛行場へと向かった。
目的に到達したときは、もうすでに日が暮れて、
わずかな街の灯と飛行場の灯火だけが見え、
天と地の区別もつかず、方向もわからない状態で、
なんとか、着陸した。
このあたりは気候が厳しく、
あたりがまだ明るいので、有視界飛行で、
上昇旋回をしているうちに、一瞬自分の姿勢が、
まったく分からなくなって、
あわてて計器飛行に切り換えて、事なきを得た、
などということがあった。
同乗したトランスエアのカーク氏に、
冬のカナダは、気候の変化が激しくて、
大変だという感想をもらすと、
夏の白夜は、もっと視界が悪く、
有視界飛行など不可能で、すべて計器に頼って、
飛ばねばならなのだ、という。
翌日、一行は、チャーチルを飛び立ち、
ザパス、ギラアムでデモフライトを行なって、
ウィニペグに戻った。
13日は、ウィニペグからフィンフロン、タンレイクに飛び、
14日は、ウィニペグからダウヒルに飛ぶ、
という具合に、ウィニペグを拠点に各地でデモフライトを
行ない、航空関係者や、報道関係者から、
YS-11の性能の優秀さを褒め称えられた。
滞在中の4日間、吹雪いていたのに、
カナダを去る日は、からりと晴れ上がった。
一行は、常夏のマイアミを経由して、
カリブ海、アンデス山脈を越えてペルーに向かった。
ペルーでの登録記号は、OB-R-907。
インカ歴代帝王の名をとって、「MYTA CAPAC」と命名された。
ランサ航空の倒産で、すったもんだのあげく、
日本から乗り込んだ矢嶋氏、田居氏、伊藤氏の努力で、
新たな購入先となったピードモント航空のスタッフに、
「ITO TAI PACEMAKER」と命名されて、
アメリカに飛んだ。
1975年2月15日、ピードモント航空登録時の、
総飛行時間は、4778時間49分。
登録記号は、N265Pである。
ピードモントの定期路線を飛んでいたが、
1979年リタイアして、7月19日に解体された。
思えば、波乱万丈の一生であった。
☆ 写真は三菱重工業から提供していただいた、
クスコ空港の2046号機。