

(潜在意識覚醒)
セラピストのNagiです
今まで色んなセッションを
やってきたけど
変われなかったって人は
最後の砦
「自分の中」
をやらないといけない
ってことだと思うよ!
「まだ気づいていない自分」に
気付くことが何よりも
大事なんだよ!
というコンセプトでこのブログはお送りしています
クライアントの皆様へ
幸せを感じる心を創る予備校スケジュール
12/21
ついに今年ラストですな
朝起きると、旦那さんはいつも機嫌が良い
鼻歌を歌いながら洗顔をして、歌いながら投げキッスをして出勤していく
息子は、寝起きが不機嫌だったり、
ソフトな反抗期でご機嫌とは言えない
娘は、朝起きるのに本当に時間がかかる
2人とも、朝からご機嫌とはいかないけれど、特に気にはならない
親の役割として彼らを起こすけれど、
遅刻をしようが、どうであろうが、私の人生ではないと分かっているからだ
空ちゃんは言うまでもなく、いつでも機嫌が良い
いつでも素直で真っすぐで、キレイな目をしている
私は、旦那さんの鼻歌を聞きながら送り出して、
空ちゃんのお世話をしていればいいだけなのだ
つまり、私の世界には機嫌が良い人しかいない
これが私が選んで創った世界だということ
確固たる自分が出来て、自分の中の未消化な感情を出来る限り浄化していくと、
他人は他人、自分は自分だという境界線が出来ます。
自分という境界線があるからこそ、不機嫌な人の影響は受けなくなるのです。
でも、そのためには、1つどうしてもやらなくてはならない事があるのです。
今日は、そんなお話しです
そこを通過できた人だけが、自分で自分の世界を創る事が出来る様になるのです。
自分はだまされていた・・・・・・そうわかった時が、天国と地獄の分かれ道なのである。
毒親と、心理的にきっぱりと決別できるかどうか?
すべてはここにかかっているのです。
天国と地獄との分かれ目に立っている時に、
自分の意思で、天国の方を選べるかどうか?なのです。
毒親育ちは、親に対して、心の奥底で、憎らしいとか、悔しいとか、ダマされたとか、そういう負の感情を貯めに貯めて来ているのです。
そんな感情を持っているのだから、当然、親に対して憎しみをぶつけたくもなるんだけど、そうであっても親にはぶつけずに、私は天国への道を歩んでいくんだ、と、親への依存心をきっぱりと断ち切る決断ができるかどうか?
天国への道は、そこからなのです
私の場合は、2度目の結婚式の時に、母親に絶縁を言い渡した事が、親への依存心を断ち切るきっかけとなったのでした。
ちょうどコロナで騒ぎ始めたばかりの時期で、どしてもコロナにかかりたくなかった母は、私に黙って弟と妹に連絡をして、結婚式に来ない様にと画策していたのでした
そんなにコロナにかかりたくないのであれば、自分だけが来なければいいのに、
なんの断りもなく、勝手に招待客のコントロールをしていたのです。
式直前になって知った私は、このことに激怒しました。
生まれて初めて母に対して殺意にも似た感情が湧いて、電話で絶縁を言い渡したのです。
でも、昔の私であれば、母に大いに依存していたので、
逆らう事や嫌われる事を恐れていました。
「穏便に」とか、「なるべく怒らせない様に」とかって、ずっと遠慮してきたのです。
けれど、その時は、本当に怒りが止まらなくて、泣きながら怒りまくったのを覚えています。
そんなこんなで、式当日までにに、マジで色々あったのですが(笑)
結局、式の当日は、母は図ったように高熱が出て病気になり来られませんでした。
わたしは小さな頃から散々、おばあちゃんがなぎの悪口を言ってたよ、とか、
誰だれがなぎの悪口を言ってたよ、と、母から聞かされ続けて来ました。
その事でいちいち凹んで悲しんで、自分の事を責めて来たのですが、
そういうのもぜーんぶ、もう気にしなくていいや、って思って断ち切った出来事でもあったのです
今ならよく分かるのですが、
母親自身が自分の事を嫌いだったので、私にそう言ってきただけだったのでした。
なのに私は、母の言う事を全部真に受けてしまって、自分を責めて来てしまったのです。
そして自分を責めに責めたので、自分で自分の人生を台無しにしてきてしまったのでした。
ガーーーーーン
でも、これが私の人生が不幸となった真相なのです。
全て、自分で不幸にしてきたのでした。
私の事を悪い様にコントロールしたい、母の思うツボだった訳ですね(笑)
でもこれは、私の依存心がそうさせていただけだったのです。
私の依存心が招いた事でもあったのです
これら一連の出来事は、とてもショックな出来事でしたが、
視点を変えてみれば、私に、親への依存心を断ち切りなさいよ、という意味の出来事だったのです。
ここに気づいたので、晴れて不幸な私の人生は終わっていったのです
もしもこの時に、依存心がそうさせていると分からなくて、母のせいだ!!と自分の憎しみに従っていってしまっていれば、地獄への道をまた歩いていたのです
危なかったです
この絶縁宣言を機に、私は自分の中にある他人への依存心を断ち切ると言う事を自分に課してきました。
それは同時に、絶対に幸せになるんだ、という決意でもありました。
能動的積極的な人は、相手の正体がわかった時、その人と無関係になろうとする。
親に愛されなかった人というのは、とにかく依存心が強いのが特徴なのです。
だから、依存している人から精神的に離れられないのです。
誰かに頼りたい、誰かに愛されたい、誰かに・・・誰かに・・・
と、常に他人を頼りたい気持ちが動機で生きてしまっている訳です。
カウンセリングやセラピーから脱せない人も全部これ
その心理が分かっていたので、
依存心という自分のエゴに負けて、気がついたらまた地獄への道を歩いていかない様に、常に常に、自分の依存心を克服する様に勤めてきました。
自分を犠牲者にしない様に、自分の人生の事は全て自分で選択する様に徹底して、
選択をする際には、後で言い訳が出ない様に、しっかりと過去の失敗から学んで選択していく様にしました。
その為に、死ぬほど勉強しましたね、加藤先生の本で。
そして、その人間への依存心を克服できないでいるから、憎しみにとらわれて、一生を復讐に費やしてしまうのだ。
せっかく、天国への道が目の前にあるのだから、親への憎しみや怒りに囚われて、これからの自分の未来を台無しにしたくなかったのです。
もう二度と自分も事を、不幸の道を歩かせたくはなかったんです。
親への憎しみの気持ちは、裏を返せば、親への依存心だと腑に落ちるまで、何回も、加藤先生の本を読んでいったのです。
知識と勇気を加藤先生の本から得て、行動に移していったのです。
これが能動的に生きる事だと、私なりに考えたからです。
何度も親にされてきた悔しい事などが何度も頭の中に浮かんでくる時期もありましたが、その度に、自分で自分の事を幸せにするんだ、お前ならそれが出来る!と、自分を自分で励ましてきたのです。
誰も励ましてはくれませんでしたからね(笑)
こういうのは、単に、思考回路の問題でもあるので、自分で自分の事をいかに洗脳し直していけるかどうか?でしかないのです。
もう、毎日が訓練でした。
でも、そうやって、
過去の怒りや憎しみに囚われている自分に負けなかった人だけが、自分で自分の過去に決別できた人だけが、
自分で選んだ最高の人生を生きれると言う事なのです
私は依存心という自分に負けなかったので、
今は本当に幸せな現実を生きれているのです。
依存心という自分に負けてしまった人は、自分では選べないのです。
自分に負けてしまっているので。
憎しみのとりこになるか、ならないかは、あなた次第だと言う事ですね
どんな状況にあっても、実は、いつでも選択権は自分自身にあるのです。
その事を悟るまで永遠に、人は自分が創った不幸な人生と格闘していくのです。
同じ事をKuさんも説明しています
憎しみのとりこになっては人生が台なし
自分はだまされていた、利用されていた、おだてられて操作されていた、そんなこ
とがわかった時、能動的な人と受け身の人では反応が違ってくる。
もちろん、どちらも相手を憎らしいと思うし、くやしいと思う。
しかし、憎らしさにとりつかれてしまうのは、受け身の人である。
能動的な人は、憎らしい、くやしいという気持ちになるよりも、あの人たちとのつ
きあいはもう嫌、だという気持ちになる。
能動的積極的な人は、相手の正体がわかった時、その人と無関係になろうとする。
自分が恋していた男はこんな男だったのか、自分が尊敬していた親はこんな人間だっ
たのか、自分が信じていた友人はこんな人間だったのか、そうわかった時、とにかく
無関係になろうとする。
自分はだまされていた・・・・・・そうわかった時が、天国と地獄の分かれ道なのである。
ある花街の女性の話である。
彼女は自分のだんなのいうことを信じていた。
彼はいつも彼女にいっていた。
ステテコになって気楽にしていられるのはおまえの前だけだ、と。
彼女は、彼が自分と一緒にいる時がいちばん自由な気持ちでいられることを喜んで
いた。
夏になってステテコ姿で家の中をウロウロするのを見るたびに、彼女は誇らしくさえなった。
彼にはここがいちばん気楽なんだと思うと、彼をもっと大切にしようとした。
「おまえの前だけ・・・・・・」 この言葉を支えに、彼女は生きてきたのである。
そして夏のある日、彼と外で会う約束をした。
彼は約束の時間に遅れた。
なかなか来ないので、ふと彼の家へ行ってみる気になった。
彼の家の窓にはスダレがかかっていた。
彼女はついスダレを通して家の中をのぞいてしまった。
するとそこに、自分のところにいる時と同じステテコ姿の彼がいたのである。
彼女は一瞬、血がさっと引くのを感じた。
死のうと思った。
そして、彼を殺そうと思った。
この種の話はいくらでもあろう。
自分が体を売ってつくったお金で、彼に貢いだ。
彼が事業に失敗し、何もかもなくなってしまったといったからだ。
十年間、自分の青春を彼に捧げた。
しかし、ある時、彼は事業に失敗するどころか、大変な隠し財産をもっていることがわかった。
自分の人生で最も楽しい大切な十年間を犠牲にして彼に貢いだと思うと、彼女は憎
しみのとりこになった。
同じことが子どもにもいえる。
自分の親が、自分の人生をおもちゃにしていることがわかった時、子どもは憎しみにとらわれる。
だが、考えてみれば、恋人や親のいうことを信じてしまったのは、彼らに対して依
存心があったからである。
そして、その人間への依存心を克服できないでいるから、憎しみにとらわれて、一生を復讐に費やしてしまうのだ。
それこそ、残りの人生まで、そんなくだらない人間にメチャメチャにされてしまうのである。
その人が温かそうな声を出していたのを、温かいと信じていたのは、自分に依存心があったからである。
自分に自律性が備わっていれば、その温かい”ふり"をしたそぶりや声の調子に、冷酷なものを感じてゾッ"としたはずである。
問題は、自分が成長してゾッとした時である。
今まで自分が払ってきた犠牲を思うと、気持ちはどうしても復讐にかたむいていく。
初めて会った人間にゾッ"とする冷たさを感じたら、それ以降はその人を避けるようになる。
しかし、今まで自分の人生のすべてを捧げてきた人間と、そう簡単に別れられるものではない。
しかし、それでもやはり、ここは天国と地獄の分かれ道なのである。
そして、能動性が身についていればいるほど、こらえきれないくやしさからの復讐ではなく、相手とは無関係の道を選ぶのではなかろうか。
なぜなら、能動的であればあるほど、相手の汚さに耐えられないからである。
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