神亀だけは なるべく詳しく書く。それは 自分が初めて美味しいと思った日本酒だからじゃない。

今 日本で純米酒が飲めるのは神亀の「小河原さん」と周りの協力のおかげだと思うからだ。

今の人には信じられないだろうが純米酒は1980年代が終わる頃まで(許された一部の地方を除いて) 

酒屋では売ってなかった。(田酒は青森と関東では特約店でしか飲めず、ネットもなくまだマニアのモノだった。都内の有名酒屋を訪ねて鼻で笑われたことがある笑)

 

 初めて生の純米酒の上手さや、3年寝かせると美味しくなることなどを日本に広め日本酒ブームのきっかけになった

本当にすごい酒蔵とだと思う。

 

 自分がたまたま埼玉だった偶然も自分の人生には不思議だ。

そもそも日本酒の歴史は兵庫県の灘、そこから新潟に移り住んだ人が新潟酒を流行らせ、日本各地 水のきれいな田舎にあると思っていた。まさか埼玉の普通の都市に美味しい日本酒があるわけ無いと思っていた。

そんな神亀の純米酒への険しかった道のりをなるべく簡単にわかりやすく書いてみようと思う。

 

 初代 清右ヱ門は新潟から神奈川に移り住み、評判になるが周囲の嫉妬から放火され追放され、失意のもと新潟へ戻る途中の岩槻(今の蓮田)に空いた蔵があると聞き、とどまる。それから現在にたどりつくまで法律で統合、廃業の危機も命がけで乗り越えて来た。「正直な酒を売れ」がモットー。

 

「戦時中の贅沢禁止」の名残で日本には純米酒は無かった。

廃糖などから安く作れる醸造アルコールを添加して3倍に増やした酒は

安定して酒を安く供給できるし 税収も安定するので国策としてすすめられていた。

美味しんぼの漫画のセリフじゃないけど 一級酒、特級酒なんて戦後復興を遂げたバブル期でも言っていた。

 

 社長を継ぐことになる小川原良征さんは 東京農大に通い、塚原教授の「このままでは本物の酒はなくなる」と言った言葉が胸に残り、その日に父に話すと「うちも昔は純米酒だったんだ」

それで純米酒を造ろうとが税務署に行くと「前例が無い」と門前払い。

大学卒業時に「記念に1本でいいから純米酒を作りたい」と頼み込み ようやくタンク1本だけ許可が出た。

しかし、三倍醸造酒用の教科書で学んだことは純米酒の役に立たなかった。

そんな時、噂を聞きつけた埼玉県醸造試験場長がふらりとやって来て技術を徹底的に教えてくれた。

 

ところが純米酒って言葉が世間に無い時代。酒は売れなかった。売れ残った酒は熟成していく。

それを飲んだ時 「これは絶対売れる」と確信したらしい。

地元の「今宮酒店」の店主はその心意気に惚れて店に置き続けた。(自分もこの店で神亀のひこ孫の最高のやつを教わった)

神亀の小川原さんだけでなく、売れない酒を置く この今宮酒店まで酒販組合からは変わり者あつかいされるようになる。

今宮酒店(西山さん)は 「良いモノが売れないのは我慢ならない。本物を残すため俺は死ぬまで応援する」と神亀を置き続けた。(感動。。。)

 

 税収の減った税務署からは 嫌がらせもされる。酒のタンクを片っ端から「不正は無いか?」と開けさせられたり、アルコールチェックしろなど 膨大な時間と手間を取らされる。

なおかつ 純米酒は単純に計算しても三倍増酒の反対に 3倍のコストがかかる。

値段は三倍増酒とほぼ同金額で しかも売れない。売れ残ったモノを熟成するにも場所と温度管理が必要。

またたくまに借金は5億円になり倒産寸前になった。

おまけに当時はよくあった酒販店や問屋への接待や謝礼を一切しなかったため 「純米酒なんて飲めるしろものじゃない、頭がおかしい」と噂されたりした。

 

 税務署は さらに熟成酒を「不良在庫だ!来年からは酒の造る量を減らせ」と言ってきた。

「うちは熟成酒が売りだ。それなら廃業命令書を出せ!」と言ったという。

廃業になれば税務署も税金が入らなくなる。

おばあさんの「くら」さんが 「お前の信じた道を歩きなさい」と田畑を売って借金を工面した。

「今までの歴史を見れば 正しいことをしていれば 必ず光は射す」

1987年に神亀は日本初、全量「純米酒」に切り替えた。たった300石(1升ビン100本×300)の小さな蔵の執念をしだいに税務署も認めることとなった。

 

 酒造組合とも関係がよくなかったため 酒米を十分に周してもらえない。それで全国を足で回って直接 農家から買い付ることにした。しかも 一切 値切らず、売れ残りも買い取った。 (農家のモチベーションを下げないため、今はそういう話も聞くが当時は前例がなかった)

 

これが1987年だ。今の人は信じられないだろうが それまで純米酒は市場に出ていなかった。

その後 純米酒は少しずつ認められた。神亀の小川原さんは 全国から純米酒を勉強に来た人たちに技術やアドバイスを惜しみなくした。 

 

 そんな苦労があったとは知る由もなく、この頃に神亀の「ひこ孫」の上級酒に出会えた自分はラッキーな幸せ者だと思う。

蓮田に友人がいて 通り道にいつも今宮酒店があり、日本酒に興味を持ち始めたとき 偶然 立ち寄っただけなのだ。

生まれて初めての生の酒はほんと、美味しかった。 ちなみに普通の神亀は 生で飲むにはクセがあるように思うので燗をする方が美味しいと思う。(これは私の主観なのであくまでも参考として)

ひこ孫からが 生が美味しいと個人的には思っている。

 

 あれから30年以上たった今、飲んでも甘味こそ少ないが本物の味がする。 この歴史とスピリットにただ、敬服してしまう。

神亀の小川原さんがいなければ、全ての日本酒が復活する事は無かった、少なくともずっと遅くなったことは間違いない。

全ての純米酒を飲むとき まずはいつも小川原さんに感謝している。

 

PS 個人的に埼玉の神亀で日本酒探しが始まって、埼玉の花陽浴で「もうこれ以上の日本酒は無いな」と埼玉で終わった。

自分は埼玉愛など無いまま15年強 暮らし東京に出たが 埼玉とは目に見えない縁があったということか。。。

自分のスタートとゴールが酒造りに向かない気がする埼玉だなんて不思議。

 

 その後、全量純米に切り替えたと知った(1993年)「梵」に出会い美味しかったが 翌年(1994年)これは日本一美味しいかもと衝撃を受けたのが「十四代」の登場だった。こんな入手できなくなるなんて思いもせず。。。この辺りからネットの広まりとともに日本酒・地酒ブームが始まったと思う。

そういう美味しい純米酒さえも神亀の純米酒の苦労のおかげだと個人的には思っている。

 

 

↓ひこ孫の上級クラスだが 種類や年度で常に名前が変わる

「ブログに書いている日本酒について

味は個人差がある。消化酵素、体形、年齢、経験など 自分の美味しいが他人の美味しいでは無い。

あくまでも自分の嗜好なので酒の評価では無い。好みだというだけ。

好みは「生酒、純米、甘口、フルーティー、酸は控えめ、無濾過、原酒、香り、透き通ったより複雑なモノが好き」

それを軸に自分が美味しいと思ったものを書いています。他の酒との優劣の評価ではありません。

40年近く日本酒を飲んできて月に2種類程度 × 12か月 × 40年 で 1000種類程度 飲んでは来ましたが

関東在住だったので、全国のモノをバランスよく飲んだわけではありません。

酒通では無いので私の知らない未知の美味しい日本酒はたくさんあるので

あくまでも 好みの似た人の参考になれば という程度で書いています。」