SHARPさんの小さめマスク、当選しました。

やはり、かなり当たりやすくなってますよね。

次に当たったら買おうと思ってたんだけど、まだ半分以上残ってるのでパスします。

 

 

 

それから、今週のBloomee LIFEのお花も早かった。

木~土という指定なんですが、初日でしたね~。

このところ、初日率が多くなってます。

 

で、今回の担当お花屋さんは種類の用紙を入れてくれていたので、さっそくご紹介。

(マイページはまだ更新されてない)

 

 

カーネーション:ライオンキング

ヒペリカム:キャンディーフレア

麦:六条麦

モカラ:オレンジ系

 

やっぱり麦でした。(笑)

開封してパッと目に入ったのが、麦。

麦っぽいな~と思ったけれど、本当に麦だとは……。

お部屋に麦を飾ったのって初めてです。

どのくらい長持ちするものなんだろう。(?)

 

 

 

 

 

 

3月11日。

あれから10年が経ったんですね。

もう10年。

まだ10年。

10年ひと昔なんて言うけれど……。

 

確かに、記憶が薄れてしまってる部分はある。

だからこそ、抜け落ちてしまった記憶を拾い上げたり、記録したりする日は必要だと感じている。

 

14時46分。

その数分前に市の防災無線が流れました。

あの日を忘れないようにと。

そのままテレビをつけ、時報に合わせて1分間の黙とうをしました。

 

その時のこと。

目を閉じた瞼の裏にマゼンタピンクがぶわーっと広がったんです。

一面のマゼンタピンク。

とっさに、マゼンタピンクで日本を包み込むようにイメージ。

その後、地球を包むようにイメージしたところで、すうっと色が薄くなり消えていきました。

ちょうど消えたところで1分経過。

何を祈ったわけでもなく、ただ愛のパワーであるマゼンタピンクで包んだだけですが。

殺伐とした世界ではなく、愛が溢れていることが当たり前のことという世界になるように。

 

 

 

 

10年前の14時46分。

その時間には、まだとーこエリアは揺れてない。

ここが揺れるまでには、2,3分かかったんじゃなかったかな。

この日は金曜日。

折り込み仕事は2回戦だった。

全員集合の6人体制。(現在は1人出向中なので5人)

私は2回戦の機械担当(前側)だった。

ちょうど脚立に上って、上から2番目の棚にチラシを補充したとき。

少しの揺れを感じた。

機械の後ろ担当の人も揺れに気が付き、私のそばに来た。

「揺れてるよね?」と声を掛け合う。

いつもの地震なら、そのまま揺れが小さくなっていくけれど、小さくなる気配がない。

と、急に揺れ幅がガッと大きくなった。

とっさに、事務室へ繋がるドアを開けた。

このドアが開かなくなると、事務員たちの逃げ場がなくなるから。

ドアを開けて横を向くと、畳んで積み上げた出来上がりの広告束が次々になだれ落ちるのが目に入った。

 

少々大きな地震でも、このくらいの時間揺れればおさまってくる。

ところが、これは違う。

揺れは止まらない。

安易に外に飛び出すのは危険というけれど、この揺れ方はマズイ。

折り込みも事務員も全員外に出た。

 

もう治まったよね?と言いながら、作業場へ入ると……。

出入口の上に取り付けてあった時計が落ちて壊れていた。

広告の束も雪崩れてる。

壊れた時計は事務が片づけてくれて、私たち折り込みは崩れ落ちている広告を元通りに積み直した。

時間は15時を少し過ぎたところ。

この日はホワイトデー直前の全員集合ということで、この当時いた男性の事務員が差し入れにケーキを用意してくれてた。

気を取り直して3時休憩にしようと、冷蔵庫からケーキを出してきて、コーヒーを淹れて。

それぞれ家族に電話したりメールしたり。

ところが、電話は繋がらないし、メールも出せない。

 

このとき、うちの職場にはテレビもラジオも置いてなかった。

(今でもテレビは無いけれど)

ケーキを食べ終えたところで、ネットに繋いで震源地がどこだったのかとか、震度はどのくらいだったのかとか、情報を見よう。

まさにその時……。

さっきに匹敵するくらいの強い揺れが来た。

即座に全員外に避難。

店の前の歩道には小学生の子供と親が座り込んでいる。

(災害時には親が学校へ迎えに行くから、その帰りだと思われる)

何かに掴まっていないと立っていられないほどの揺れ。

私を含め何人かが店の前に停めてある軽トラックに掴まった。

道路に目を向けると、アスファルトが波を打っているように見える。

店の建物はギシギシと恐ろし気な音を立てている。

 

この時、不気味な音を立てて軋む店を見上げながら思った。

自分の人生はこれで終わりなのか、と。

子供たちは無事だろうか、と。

まだ大人になり切れていない子供たちのこの先の人生を、私は知らずに終えることになるのか、と。

 

揺れが収まり、作業場へ戻ると、飲みかけのコーヒーが零れていた。

広告も再び雪崩れてる。

それらの片づけをしていると、夕刊部隊が帰ってきた。

うちのエリア担当の社員が戻ってきたので、うち周辺の様子を聞いてみた。

大丈夫だったよというので、ひと安心。

 

さっさと仕事を終わらせようと、3時休憩を切り上げて残りの仕事開始。

1分でも早く終わらせて家に帰りたい。

(この時点で、まだ震源地や震度の情報は得ていない)

仕事が終わったのは17時。

 

このころはまだ自転車通勤していたから、同じ方向の同僚と2人で帰ったんだけど、2人とも情報を入れてないものだから、セブンの駐車場や道路向こうのスーパーの駐車場が車でいっぱいになってるのを見てもピンとこない。

 

家のドアを開けると、息子が出てきた。

「家の中、すごいことになってるからビックリしないでね」

そう言われて、恐る恐る入ってみると……

 

私の寝室(現在はタンスと本棚置き場になっている部屋)のドアは少ししか開かない。

CDや本が落ちてドアを塞いでいる。

(これはのちに通り抜けられるくらい押し広げた)

玄関正面の教室スペース(現在の寝室)は、ビーズ棚は立っていたけれど、ビーズケースが8割がた落下。

しかも落ちた衝撃でケースの蓋が開いたり割れたりしてビーズ自体が散乱してる。

部屋の奥のパソコンラックからはPC(VAIO)が落ちてる。

ラッキーだったのは、ケーブルのおかげでギリギリ地面に接地しないところでぶら下がっていたこと。

すぐに救出して電源を入れたところ、音量がめちゃくちゃ小さくて大きくならない。

ぶつかってはいなかったけど衝撃はあったよね、ともう一度電源を入れなおしてみたら、通常の音量に戻りました。

(きっと、怖くて声が出なくなっちゃってたんだね)

 

ダイニングキッチンでは、観音開きの食器棚が開いて食器が落ちて割れてる。

そこを越えなければ台所(シンクやコンロ)には行けない。

冷蔵庫や電子レンジ台が東側へ7,8センチずれている。

 

リビングに入ると、すでにテレビがかかってた。

(ぎりぎりで落ちなかった)

震源地の情報と最大震度と、そして津波の映像に息をのむ。

その間にも大きく小さく揺れが続く。

茫然とテレビを見ているうちに辺りは暗くなった。

「片づけは全部明日に回そう」

ちょうど第二土曜日ということで仕事はお休みだったから。

 

ライフラインで影響があったのは水道。

市へ入るパイプの破損と、マンションの貯水槽の破損のダブルパンチ。

たまたまお風呂の残り湯があったから、トイレや手洗いに使えたけれど。(3日後に復旧)

 

割れた食器を片付け(大きなスーパーの袋3つ分)、台所へのルートを確保。

やはりガスは止まってる。(安全装置)

ガスの復旧作業をしようかと思ったけれど、頻繁に震度5クラスで揺れてるから、そのまましばらく放置することに。

 

折り込み仕事は、翌日はお店からのお知らせと事前に持ち込みがあった広告のみで作ったそうです。

月曜は出社したけれど、広告の種類が2つとか3つとか。

それ以降は印刷会社が動かないのと配送ができないということで広告は無し。(一週間お休み)

 

震災後20日間は服を着たままリビングに集まってコタツで寝てました。(各自部屋でパジャマに着替えるようになったのは一ヶ月を過ぎてから)

最初の一週間は、今みたいにスマホで地震速報が流れないから、揺れの情報を得るために一晩中テレビは点けっぱなし。(音量はささやき程度に)

通常のテレビ番組なんてやってないから、全部地震がらみ。

頻繁に揺れるから、熟睡なんてできない。

ほとんど眠れていない状態で一週間が過ぎた。

 

情報過多は不安感を増す、ということを初めて知りました。

神経が休まらない私を救ってくれて癒してくれたのが「シチュエーションCD」。

特にお世話になったのは「感応時間」。

そして、諏訪部さん、置鮎さん、祥ちゃん、和彦さんといった方たちのツイート。

 

 

 

あれから10年。

私を取り巻く環境も大きく変わった。

 

毎日を丁寧に軽やかに、そして心には溢れんばかりの愛を持って生きることを誓う。

 

 

 

 

 


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