今日の話題は、サークル暗中模索:和水創太(想)さんの試作品『安眠物語-イムルの夢食事』について。

 

 

夕方寝で夢を見ました。

夢ならではの混沌としたもので、掴み所がないものなんだけど。

妙に印象深く残ってるシーンがあります。

 

夢の場所は、シオン(私の守護天使)が管理人をしているマンション。(夢の中の私の住居として一番数多く出てくる)

何か空気がザワついていると感じた夜。

そうね、たぶん…21時くらい。(22時は過ぎてない)

玄関の外に出て、建物の外の様子を見ようと階段を降り始めたところで、下から女の子(小学校高学年くらい)が2人上がってきた。

初めて見る子だけど、このマンション内の子という認識がある。

手にはアロマキャンドルとお香を持ってる。

それを見て、ザワついている空気の意味が分かった。

これを鎮めるためにできるだけ”上”でお香を焚こうとしてるんだ。

その子たちに『遅くなると親が心配するから、1本だけ焚いたら帰るんだよ』と声をかけると、「うん、わかってる」という返事。

でも、それは”口だけ”というのが丸わかり。(しばらく居座る気満々という感じ)

1階まで降りたら、すぐに戻ろうと思っているから、数分後にまた私と会ったら、今度はなんて言うんだろう?なんて思いながら階段を降りた。

この降りてる最中で目が覚めた。(まだ1階に着いてない)

 

夢占いを見ると、階段を降りている途中で出会う人物はアドバイスをくれるらしい。

あの女の子たち、私が通り過ぎた後にゴニョゴニョ話してるのがかすかに聞こえてきてて、聞こえた印象だと「まだ帰らないもんね」みたいな感じだった。(他になんて言ってたんだろう)

この子たちがしようとしているのは、儀式的なものという印象。

お香を焚いて、ザワついている何かを鎮めようとしてる。

 

うーん、読み方が分からない。

(単にディアラバ・コウくんの香水の香りで刺激されただけかもしれないけど笑)←今日のコウくん、昨日と違ってまとわりつき方が半端ない

 

 

 

昨日、いろいろとダウンロードして外付けハードディスクに移しました。

その中の一つ、サークル暗中模索さんの試作品『安眠物語-イムルの夢食事』。

今回、初めて”地の文”が入ったシナリオを書いたんだそうです。

『朗読と催眠の中間』という仕上がりになったということで。

どんな感じなのか、ワクワクしながら…。

 

”安眠物語”ですから、そのまま眠っても良いように、という指示。

なので、昨夜の3本目に聞きました。

時間は約24分。

 

想さん自身、催眠音声において地の文というのはあまり好ましくない表現方法だと考えているそうです。

実際にやってみて、地の文だからこそできる可能性など、いろいろ感じるところがあったよう。

 

 

結論から言うと、これとても面白かった。

(お話の内容云々ではなく、聞いている体感のこと)

 

”地の文”がどんな感じなんだろうと思っていたら、作中人物(わたし)の一人称のものでした。

『わたし』が目の前に現れた『人物(イムル)』と話し、感じたことが一人称として語られる。

 

聞いていて、すんなり溶け込める感がありました。

いつものように、作中のわたしに”ダイブ”しなくても、自ら語ってくれてるから思考を同化させやすい。

同化させようと意識的に入り込まなくても、自然に寄り添っているうちに”混じり合ってる”という感じ。

 

これは楽だし、安全です。

というのは、初聞きで”ダイブ”するにはけっこう勇気が要るから。

2回目以降は内容を把握してるから、思いっ切りダイブして同化率を高められるけれど。

それが、地の文で『わたし』の心の内がわかっていれば余計な心配をしなくて済むってことですからね。

この利点は良いな、と思ったけれど…。

 

反面、作中のわたしに意識が引っ張られる分、『映画を観ている』あるいは『小説を読んでいる』ような感覚になりました。

確かに私は同化しているけれど、それはいつものように一体化してるのではなく寄り添ってるというのに近い感じ。

映画や小説の登場人物に感情移入している、というものですね。

 

確かにこれも悪くない。

けれど、やっぱりがっつり一体化して『物語を楽しみたい』という欲求が大きい。

なので、やはり地の文ってのはない方がいいのかもしれない。

 

というのが、途中まで思っていたことです。

 

 

途中、頭の中にもやがかかってきた。

明確な催眠導入は無かったけれど、安眠音声だからね…。

そう思った途端、イムルが『頭にもやがかかってきたでしょう』と言う。

この時、さっきまで画面越しに見ている、あるいは小説を読んでいる状態(感覚)だったのに、いつのまにか『混じり合った』と気がついた。

一人称で語られているものは、私が感じていることと同じ。

いつの間にか、『わたし』の意識は、『私』の意識となっている。

この自然な混じり方、溶け合い方ってのはすごく新鮮な感覚でした。

なんて言うかな。

結果的に同化しているという事実は同じなんだけど、そこに至る過程が違う。

 

 

というのが、今日の午前中にコメント(感想)を送ったときに思っていたこと。

 

今日のブログを書き始める前に思いついたのが…

私は、普段感想を書くとき、『わたし』視点で書くときが多い。

これはいわば、それの逆バージョン。

私が馴染みやすい、混じりやすいと感じたのは、これのせいかもしれない。

 

 

 

 

 


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